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田口宏昭

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たぐち・ひろあき

田口宏昭
生誕 日本の旗 日本 大阪府
出身校

大阪府立旭高校卒業後 美術系の専門学校に進学

大学学部を経ずに京都大学大学院文学研究科に入る
職業 無職
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田口宏昭(たぐち・ひろあき、1944年 - )は、日本の朝鮮人。在日ハーフ。元熊本大学教授。専門は医療社会学、死の社会文化論。大阪府出身。

経歴[編集]

  • 1973年3月 京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学
  • 1973年5月 熊本大学専任講師(教養部)
  • 1982年4月 熊本大学助教授(文学部)
  • 1991年4月 熊本大学教授(文学部)
  • 2009年4月 熊本大学大学院社会文化科学研究科教授(配置換え)
  • 2010年3月 熊本大学定年退職

京都大学大学院、国立大学教養部に職を得るまで [編集]

本人の談によれば、いずれも「教務と教官に2000万円ずつ払った」のだそうだ。京都大学の大学院担当教官と教務の係りの人にである。1968年のことだ。さらに熊本大学教養部に講師として採用される時にも「2000万円払った」と言う。だから、正当に職を得たのだと彼は主張する。1982年に文学部に移動する時には、京都大学で見知っていた朝鮮出身の丸山定巳文学部教授の手引きによってスムーズに事をなした。その時の手間賃について本人は明らかにしていないが、同額の2000万円だったと推測される。

大学受験を経ていないため英語が全くできず、国史や西洋史の素養もない。また、古文や漢文などにふれたこともなかったために日本的精神や大陸的発想を知らないどころか、忌避すべき思想として唾棄した。みずからの狐目、エラ張りが京都の貴族顔だとし、大和民族特有の顔の特徴を嘲笑するところに現れていた。美術専門学校に進むほどの持ち前の美的センスは『金髪のアメリカ人女性』に注がれ、大学教官時代は、当時まだ発売されたばかりで高価だったビデオデッキを数台買い込み、日夜ビデオ鑑賞に耽っていた。そのためか、白昼夢を見ているかのように呆然と口を開けながら上を見るのが癖だった。高校も比較的入りやすい新設の学校を受けた。受験勉強はしていなかったので中学数学が十分にできず、論理的な思考が極めて貧弱だった。しかしそのことがむしろ、受験に毒されていない型破りの教官として異彩を放っていた。彼の存在価値は「無審査に単位を出してくれるからいいや」であり、志のない一般学生には人気があった。

生い立ち[編集]

大阪市立大学 文学部[編集]

大阪市立大学と府立大学が統合して公立大となるや、どういう訳か、それまで記されていなかった学歴に『大阪市立大学 文学部』が加わった。もし本人が書き加えたのであれば、学歴詐称に当たるので、急遽削除し元に戻すと共に事実に改められた。合格してもいなければ通ってもいない学歴を付与するなど、名誉を重んじる田口への嫌がらせだったのか。それとも本人が現在の名誉にふさわしい経歴を捏造したのか、不明である。いずれにせよ、事実に反する経歴は不名誉の元となる。

文学部唯野教授[編集]

ニューアカデミズムを半分茶化した筒井康隆の『文学部唯野教授』が流行ると、田口は「タダの教授だもんね」「タダの教授だもんね」などと大ウケけした。大学教授にはカネを払ってなるものだと思っていたのだろう。彼は『文学部多額教授』だった。

セクシャル[編集]

田口は丸山定巳とゲイ関係にあり、同性愛者と考えられ崇拝の対象となっていたが、実際にはもう一つ隠れた性愛嗜好があった。宮崎勤の事件(1989)、足利事件(1990)飯塚事件(1992)などの事件が起きると、気に入らない者を名指しし奥歯を噛みながら「あいつがやったんだ」と決めつけ、大学中に噂を流して回った。特定の事件に興味があったのは彼の聖癖を露呈する諸行であった。

副学部長 副学長 副会長[編集]

翻訳本[編集]

高校も新設の進学校でないところに入り、大学には進学していない田口はもちろん英語力が皆無である。文学部で外書講読の講義を持っていたが、一度も訳したところを見たことがない。後から助教が赴任してくるとその人にやらせていた。それが共著で訳本を出版できるわけがないので、"Taking Life and Death Seriously Bioethics from Japan"(Elsevier社、共著)、2005は、東大卒の共著者のみの仕事であり、彼の死後、田口だけがやったように著作リストに入れられている。

著作[編集]

  • 『現代生活と社会学的視点』(共著)、1977
  • 『応用社会学の諸問題』(共著)、1978
  • 『社会学論集―持続と変容ー』(共著)1999
  • 病気と医療の社会学』(単著)2001
  • 『ケア論の射程』(共著)、2001
  • 『よき死の作法』(共編著)、2003
  • 『水俣の経験と記憶―問いかける水俣病―』(共編著)、2004
  • "Taking Life and Death Seriously Bioethics from Japan"(Elsevier社、共著)、2005
  • 『水俣からの想像力―問い続ける水俣病―』(共編著)、2005
  • 『戦場の詩人ー森國久の写真詩と日中戦争―』(単著)、2021
  • 『森國久と草の根民主主義ー天草架橋と離島創生に懸けた不屈の生涯―』(単著)、2022

翻訳[編集]

  • 『社会学的発想の系譜』(共訳)、1975
  • 『政治エリート』(共訳)、1982

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 令和5年春の叙勲 瑞宝中綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 12 (2023年4月29日). 2023年5月3日閲覧。
  2. ^ 『官報』号外第93号、令和5年5月1日

外部リンク[編集]