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王杲 (建州女真)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王杲 (拼音:wáng gǎo, 仮名:ワウ・カウ/オウ・コウ) は、明代の建州女真。度々明朝の辺塞を侵犯し、多数の明官を殺害したため、明朝の檄文を受けたハダ初代国主・により捕縛され、万暦帝に直接引き渡された後、磔刑にかけられ死亡した。(生:? - 歿:1575)

清朝太祖・ヌルハチの外曽祖父 (あるいは外祖父) とされるが、清朝の史料ではヌルハチとの族柄について言及されず、『清史稿』は民族不詳としている。

略歴[編集]

王杲は生来狡猾で、撫順で漢語を学んだ[1]ほか、多数の言語や文字に通じ、殊に日者術[2]に精通していたとされる。嘉靖年間に建州右衛都指揮使に任命されたが、しばしば明朝の辺塞を侵犯した。

明朝辺境部への侵犯[編集]

建州部では天順以来、左衛の董山が明朝に要請を送り続け、撫順 (現遼寧省撫順市) に馬市が開設された。古勒城グレイ・ホトンを拠点とする王杲にとって撫順の馬市は要衝の地であった。現地の夷人らは馬市での馬の売買で得られる利益を当てにしていた為、明朝側の買値に不満を覚えては怏怏とし、一暴れしてやろうと考えた。王杲による暴動は、嘉靖36年1557にみえる記録が初出とされる。[3]

嘉靖36年1557 10月、王杲は撫順で備禦の彭文洙を殺害すると、東州不詳、恵安不詳、一堵牆不詳など諸堡塞を掠奪し、以降それが毎月のように続いた。[4]

嘉靖41年1562 5月、王杲は虜衆を糾合して二手に分け、東州堡と撫順核桃山から入寇した。遼陽副総兵の黑春[注 1]は遊撃・徐維忠らを率いて応戦し、黑春みづから数十の首級を挙げる活躍をみせた。虜衆は大敗し、鎧甲を脱ぎ捨てて遁走した。核桃山では備禦・劉普が虜衆を撃攘し、149の首級を挙げて馬50匹と大量の鎧甲を鹵獲した。[5]同月、虜衆が再び遼東を侵犯し、鳳凰城を攻撃したが、攻略できず、湯站堡を掠奪した。黑春が王杲の居城を直接たたき潰そうとグレ城に進軍すると、王杲らは敗走する振りをみせて精鋭の騎兵を媳婦山[4]の林中に忍ばせ、追って来た黑春らを幾重にも取り巻いた。黑春と把総の田耕らは孤立無援の中、二昼夜に亘って力戦したすえに磔にされ[4]殺害された。[6]

王杲は次いで遼陽 (現遼寧省遼陽市) に侵掠し、孤山 (不詳) を襲撃し、撫順、湯站 (現遼寧省丹東市振安区湯山城鎮?) を略奪し[7][8]、更に指揮の王国柱、陳其孚、戴冕、王重爵、楊五美、把総 (官職名) の温欒、于欒、王守廉、田耕、劉一鳴ら、計数十名を殺害した。これを受けて明朝は王杲の貢市を停止し、討伐のため派兵したが、王杲は掌を返して寛恕を乞いながらも悛改しようとしなかった。

隆慶末頃、建州部の哈哈納ら30人が明朝辺塞に逃げ込み、明朝に亡命した。王杲は開原城 (現遼寧省鉄嶺市開原市) に赴いて逃亡者の引き渡しを求めたが、拒否されたため、騎兵1,000余りを率いて清河を犯した。游擊将軍・曹簠(ソウ・ホ)が伏兵をしかけて五人を斬伐したが、王杲は逃走した。

その後、撫順 (現遼寧省撫順市) の貢市が再開された。備禦 (官職名) が着座すると、入貢者 (酋長) が順に公堂に入り馬を進納した。馬はどれも足萎えの痩せぎすで、貢納の基準を満たしてはいなかったが、備禦は高値をつけ、入貢者を満足させた。この時、王杲は一同を睥睨しながら酒を食い、酔うとその場で足を投げ出して坐り、周りの入貢者に罵詈雑言を浴びせて悪態をついた。

汝翌失態[編集]

隆慶6年旧暦7月、新しく撫順の備禦に就任した賈汝翼は、入貢者を公堂外の階段下まで退がらせて威厳をみせようとしたが、入貢者たちは反対に階段を上り切って更に一歩中へ入り、婉曲に賈汝翼の態度に抗議した[9]。憤慨した賈汝翼は腹いせに、進納された馬を検めさせて、基準に合わない馬を進納した十数人を譴責し、受納を拒否した[10]。諸酋長は切歯扼腕して王杲を頼ったため、王杲は牛を屠って諸部落と盟約を契り、逃亡者を連れ戻せていない怒りも手伝って、明の辺塞を幾度も劫奪した。この時、副総兵・趙完は諸酋長に取り入ろうと、張学顔の統制を故意に無視して出兵を中止し、事件の責任を賈汝翼に転嫁した[11]

同年旧暦9月5日、張学顔は「王杲が何度も明軍を襲撃し、28人が殺害された」と上奏し、「疲弊した軍で無理な戦争はせず、入貢再開の許可を交換条件に、掠奪した人馬を返還するよう再度諭し、尚も執着すれば、徹底的に誅殺を図るべきだ」と具申して、穆宗・隆慶帝の承認を得た[12]。同月12日、兵部は、阿革、王杲らが撫順、寧前 (不詳)、錦義 (不詳) などを侵犯したと上奏した[13]。同月28日、王台吉が部落の騎兵1,000余り、王杲らが騎兵3,000 (2,000とも) 余りをそれぞれ率い、撫順関に迫った。分守東寧道・李鶚、開原兵備・王之弼らが官吏を派遣し、王杲と盟歃した[14][15]。この頃、ハダ国主・ (王台) が諸部を制圧し、強勢を誇っていたため、開原兵備副使・王之弼は萬に檄文を出し、王杲を誨諭させた。これに対し、王杲は賈汝翼の圧迫的態度を訴えた。

入貢恢復[編集]

同年旧暦10月21日、業務上の失態を理由に賈汝翼が罷免された (趙完はそれより曩に罷免されていた)[16][17]。同月26日、五月から九月に亘って軍民250人余りが拉致され、未だ返還されていないと上奏があり、備禦・賈汝翼の失態と挑発の責任が追及された[15]。同年旧暦12月25日、王杲が萬と撫順関で盟約を結び、更に掠奪した149人と馬を返還したことが上奏され、これにより王杲は入貢の資格を取り戻した。萬には銀幣が賜与された[18]

再度停止[編集]

万暦2 (1574) 年旧暦7月、建州部の奈児禿ら四人が明朝辺塞の関門を叩いて亡命を願い出た。王杲の部下・来力紅はこれを連れ戻すべく関門に駆け着けたが、同年に備禦を兼任したばかりの撫順遊擊・裴承祖が引き渡しを拒否したため、応酬として行夜[19]の警備五人を拉致し、五人を返還するよう命令されたが拒否した。裴承祖は王杲が入貢中であることを知っていたため、朝貢の持参物を棄ててまで加勢しに戻って来ないだろうと予測し、騎兵300余りを率いて来力紅の部落に進攻したが、現地で諸部に完全包囲され身動きがとれなくなった。王杲はこれを知るや蜻蛉返りして裴承祖に謁したが、一方で包囲の群勢は更に増えていた。裴承祖は「皆貴下に拝謁を願うております」という王杲の虚言を聞き捨てると、数十人を殺害し、諸部もこれに応酬して戦闘が始まった。来力紅は裴承祖を執えると腹を剖いて殺害し、更に把総・劉承奕と百戸・劉仲文を惨殺した。事件を知った張学顔は具申して王杲の貢市を停止した。

貢市が停止されて属部が困窮していることを理由に王杲は、トゥメト[20]、泰寧諸部を糾合し、大挙して遼陽、瀋陽を襲撃した。李成梁は瀋陽に武将を分けて駐箚させた。王杲は諸部の騎兵3,000を率いて五味子衝に進入したが、明軍に囲まれ、諸部の兵は王杲の部落へ逃亡した。王杲の部落は天険に築かれ、城郭が堅固で深い空堀を設けてあるため、攻略は困難とされた。同年旧暦10月、明軍は砲弾、火器を携えて王杲の部落を包囲し、要塞の幾重にも張り巡らされた柵を斧で壊し始めた。李成梁が各武将に早急に城を陥落させるよう命じると、王杲は300人に櫓の上から弓矢で抗戦させたが、対する明軍は火を放ち、家屋や馬草が悉く炎上して空は煙に覆われ、諸部は潰滅した。明軍は首級を1,104挙げ、裴承祖らを殺害した者は全て首を落とされたが、王杲はまたも逃走した。明軍は圧倒的軍事力でほとんどの人畜を殺戮、掠奪した。

逃走失敗[編集]

万暦3 (1575) 年旧暦3年2月、王杲は余勢を集めて再び辺塞を侵犯したが、またも明軍により包囲された。王杲は蟒褂と紅甲を阿哈納 (アハナ?) に与えて囮りとし、明軍に追わせてその隙に突破を図った。突破に成功した王杲は泰寧衛の速把亥の許を目指したが、明軍を避けて北走を諦め、萬 (ハダ) の領地を経由することにした[21][22]

同年旧暦7月28日、明朝側から檄文を受けた萬は子・フルガン[23][24]と共に王杲を執え、辺塞看守にその身柄を引き渡した[25]。同年旧暦8月6日、明の神宗・万暦帝は王杲の身柄を紫禁城に檻送するよう命じ、また、王杲を捕らえた功績を以て萬に龍虎将軍の勲官を授与し[26]、萬の子二人[27]を都督僉事に昇任させ、報奨として銀幣を下賜した[28]。同月29日、万暦帝は午門雲楼に登り、遼東守から王杲の身柄を受け取った[29]。日者術[2]に通じているから不死身だと豪語していた王杲は、貢市で[30]磔刑に処されて死亡し、その妻子27人は萬の帰属とされたが、子・アタイは脱した[31]

清宗室との関係[編集]

  • 稻葉岩吉は自著『清朝全史』[32](1914) において以下の如く述べ、王杲をヌルハチの外祖父としている。(フリガナは原書に拠る。)
清朝の記錄は、又た太祖の母系を詳かに言はず。實錄は、顯祖の大福金フチンなりといひて、喜塔喇氏といふを舉げ、こは阿古都督の女、後に宣皇后といへる、即ち是れなりと附記せるが、阿古都督なるもの、何樣たりしやは、又明かならず。阿古は、王杲ワンコの轉音とも覺ゆるが、それを明記せざるは、蓋し諱むところありしなるべし。葉赫の酋長那林孛羅は、かつて太祖をば王杲の裔なりといへり。
  • 趙爾巽らの編纂に成る『清史稿』(1928) は「其の種族を知らず」[33]と言い、且つヌルハチとの関係についても言及していない。
  • 孟森は自著『清朝前紀』(1930) において以下の如く述べ、上記の稻葉の見方に概ね賛同している。(適宜括弧及び読点を附した。)[注 2]
顯祖爲王杲女夫。據稻葉清實錄、顯祖之大福金爲喜塔喇氏、乃阿古都督女。今、東華錄所錄正同。稻葉云「阿古都督爲何等人、無明文。今、可斷言阿古卽王杲之轉音。不舉王杲者、諱之也。葉赫酋長・那林孛羅之言、不曰『太祖爲王杲之裔』乎。」[32]今、按稻葉之言甚確。其所見稱「太祖爲王杲之裔」者、爲葉赫貝勒・那林孛羅、自必有本。那林孛羅……卽孝慈高皇后之兄。……以太祖妻舅之所言、自必可信。……要之清太祖母爲王杲之所出、明清之際、固共知之、後乃諱言耳。

(抄訳:稻葉の『清實錄』からの引用に拠ればタクシの嫡妻はヒタラhitara氏で、アグagu都督の娘である。『東華錄』にも同様の記述がみられる。稻葉の曰う所の「阿古は、王杲ワンコの轉音」というのは尤もである。イェヘのナリムブルはヌルハチ後妻モンゴ・ジェジェの兄、つまりヌルハチの義兄である為、「(太祖をば) 王杲の裔なり」という発言も信頼できる。要するに、ヌルハチの母は王杲の娘で、明末清初の頃は衆知の事実であったのが、後世になって憚られたに過ぎない。)

  • 『明實錄』の万暦5年10月4日の記事に「○丁亥。建州右等衛女直夷人都督・來留住等、并隣等衛[注 3]夷人都督阿古等、各赴京朝貢。賜宴、給賞如例。」[34]とあるが、王杲は万暦3年に磔にされて死亡している為、同記事の「都督阿古」がヌルハチ母ヒタラ氏の父であれば、王杲=阿古は成り立たなく成る。

子孫[編集]

脚註[編集]

典拠[編集]

  1. ^ 维基百科より引用、典拠不詳。
  2. ^ a b “にっ-しゃ【日者】”. 精選版日本国語大辞典. 小学館. https://kotobank.jp/word/日者-2071162. "〘名〙②日の吉凶を卜する者。占い者。〔史記‐日者伝集解〕" 
  3. ^ “第13篇 王杲阿台紀11 附王兀堂. 清朝前紀. pp. 211-223. https://zh.wikisource.org/wiki/清朝前紀/第十三篇 
  4. ^ a b c “建州女直通攷”. 東夷考略. https://zh.wikisource.org/wiki/東夷考略#建州女直通攷 
  5. ^ “嘉靖41年5月7日段55039”. 世宗肅皇帝實錄. 509 
  6. ^ “嘉靖41年5月29日段55057”. 世宗肅皇帝實錄. 509 
  7. ^ 维基百科は「王杲攻略辽阳、孤山、抚顺、汤站等地」としているが、「略」一字で「攻略」と読むのは少し苦しい。大概は「略奪」の意味で用いる。
  8. ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#王杲. "……遂犯遼陽,劫孤山,略撫順、湯站,……" 
  9. ^ 「守備・賈汝翼初メテ上リ,亢厲ヲ爲シ,諸酋長ヲ抑ヘテ階下ニ立タセ,諸酋長故事ニ非ザルヲ爭ヒ,階ヲ盡シテ一等進ム。」(清史稿-222)、「備禦・賈汝翌新タニ蒞ミ,酋長ヲ抑ヘ堦ヲ下ラシ,……」(東夷考略)。
  10. ^ “隆慶六年七月18日”. 明神宗實錄. 3. 不詳. "……汝翼卻夷人之土儀懲其違抗……" 
  11. ^ “隆慶六年七月18日”. 明神宗實錄. 3. 不詳. "……杲遂約諸部落屢入為寇副總兵趙完故違學顏節制不發兵防堵委罪汝翼以媚夷心……" 
  12. ^ “隆慶六年九月5日”. 明神宗實錄. 5. 不詳. "○兵部覆遼東巡撫張學顏奏建夷王杲屡肆刼掠官軍斬獲二十八級杲懷憤必求大逞我以久疲之軍當之恐未必勝宜乘其沮氣再行宣諭令杲送還所掠人口准其入市如仍前執迷則調集重兵相機剿殺毋容姑息貽害地方上報可" 
  13. ^ “隆慶六年九月12日”. 明神宗實錄. 5. 不詳. "○兵部奏東夷阿革王杲等犯撫順寧前錦義地方……" 
  14. ^ “【盟歃】めいそう”. 普及版字通. 平凡社. https://kotobank.jp/word/盟歃-2867495. "血を歃(すす)ってちかう。血盟。" 
  15. ^ a b “隆慶六年十月26日”. 明神宗實錄. 6. 不詳. "○廵按遼東御史朱文科奏九月二十八日王台吉領部落一千餘騎夷酋王杲等領騎三千 (二千) 餘各近撫順関分守東寧道李鶚開原兵備王之弼差官與杲歃血盟和失宣布之体有損國威自五月至九月擄去軍民二百五十餘名口未見送還因追參備禦賈汝翼生事啓釁法當重究分守東寧道李鶚開原兵備道王之弼當日頗有措置彈壓之功請行罰治章下兵部鶚之弼各奪俸二月" 
  16. ^ “慶六年十月21日”. 明神宗實錄. 6. 不詳. "○以撫順東川等堡節經失事革備禦賈汝翼……遼陽副總兵趙完已經革職戴罪立功俱免究……" 
  17. ^ “萬曆元年二月6日”. 明神宗實錄. 10. 不詳. "○革遼東副總兵趙完任行廵按御史提問先是王杲入犯完觀望逗遛坐革職" 
  18. ^ “隆慶六年十二月25日”. 明神宗實錄. 8. 不詳. "○遼東撫臣張學顏奏建州夷首王杲遵奉宣諭約海西夷首王台送還所擄人口一百四十九名請加賞免剿准其入貢仍行河東將領加意撫處勿得更變成規致失夷心濫增賞物養成後患兵部覆奏賞王台銀幣" 
  19. ^ “こう‐や【行夜】”. 精選版日本国語大辞典. 小学館. https://kotobank.jp/word/行夜-1301790. "〘名〙衛府の官人が、夜中に京城 (羅城門の内) を巡回して警備すること。" 
  20. ^ 维基百科は土蛮 (トゥメン・ジャサクト・ハーン) としているが、典拠不詳。『清史稿』巻222の原文は「土默特、泰寧諸部」。
  21. ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#王杲. "三年二月,王杲復出,謀集餘眾犯邊,復爲明軍所圍。王杲以蟒褂、紅甲授所親阿哈納,陽爲王杲突圍走,明軍追之。王杲以故得脫,走重古路,將往依泰寧衞速把亥。明軍購王杲急,王杲不敢北走,假道於王台。邊吏檄捕送。" 
  22. ^ 维基百科は「萬曆二年(1574年),……王杲不敢北逃,只得借道哈达,為王台所擒,献予明廷。明神宗亲至午门城楼接受献俘。」として、北へのルートをやめ、ハダを経由しようとして萬に捕縛され、紫禁城に押送されるまでを万暦2年のこととしているが、典拠なし。
  23. ^ 『清史稿』巻222「王杲」では「……王台率子"虎兒罕赤"縛王杲以獻,……」、「……因誘葉赫楊吉砮等侵"虎兒罕赤"。」と、萬の子・フルガンを「虎兒罕赤」としているが、「赤」が何を指すか不明。なお、『清史稿』巻223では「扈爾干」と表記され、「赤」はつかない。
  24. ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#王杲. "七月,王台率子虎兒罕赤縛王杲以獻,檻車致闕下,磔於市。王杲嘗以日者術自推出亡不即死,竟不驗。" 
  25. ^ “萬曆三年七月28日”. 明神宗實錄. 40. 不詳. "○虜酋王台執王杲以獻邊臣以聞" 
  26. ^ “建州女直攷”. 東夷考略 (Wikisource版). 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/東夷考略#建州女直通攷. "……加台龍虎將軍秩眎西虜二子並進都督僉事……" 
  27. ^ フルガンのほかもう一人は不明。サムハトゥ (三馬兎) か。
  28. ^ “萬曆三年八月6日”. 明神宗實錄. 41. 不詳. "○辛未論擒獲王杲功上命械觧王杲獻俘正法以王台縛送首惡忠順可嘉加授勳銜二子俱陞都督僉事仍賞銀幣以示優獎" 
  29. ^ “萬曆三年八月29日”. 明神宗實錄. 41. 不詳. "○甲午上御午門雲楼受遼東守臣所獻逆酋王杲俘百官稱賀……" 
  30. ^ 维基百科は「王杲被磔于北京。」としているが、典拠不詳。
  31. ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#王杲. "妻孥二十七人爲王台所得,其子阿台脫去。" 
  32. ^ a b “第八節 - 甲 - 太祖の幼時”. 清朝全史. . pp. 120-122 
  33. ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#王杲. "王杲,不知其種族。" 
  34. ^ “萬曆5年10月4日段59785”. 神宗顯皇帝實錄. 68 
  35. ^ 『清史稿』巻222と『東夷考略』には莽子寨に住む毛憐衛女直の「阿海」という同名の人物がみられるが、『柳邊紀略』巻3には「 沙濟城主阿海」とある。同名の別人か、或いは同一人物でどちらかの文献が事実誤認しているか、ここでは不明ながら、一旦は王杲の子として挙げておく。
  36. ^ 柳邊紀略. 3. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/柳邊紀略#柳邊紀略卷之三. "……蘇克蘇滸河其地在清河邊外屬城寨之著者七……曰古勒城曰沙濟城沙濟城主阿海與古勒城主阿太皆王杲子也……" 
  37. ^ “建州女直通攷”. 東夷考略. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/東夷考略#建州女直通攷. "……而别將秦得倚等已前破阿海寨誅海海毛憐衞夷往牧莾子寨與阿台濟惡亦梟逆也" 
  38. ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷222#王杲. "阿台居古勒寨,其黨毛憐衞頭人阿海居莽子寨,兩寨相與爲犄角。" 

註釈[編集]

  1. ^ 参考:黑春は『明史稿』「黑春傳」に拠れば建州女直の後裔で、代々広寧衛の指揮使を務める家系であった。
  2. ^ 参考:维基百科「王杲」では「稻叶君山认为王杲与“阿古都督”为同一个人,孟森以为误」とし、その典拠として孟森『滿洲開國史講義』中華書局 (2006) p.194を挙げている。同書については閲覧できていない為、さしあたって『清朝前紀』の記述に拠る。尚、『滿洲開國史講義』は目次をみる限り『清朝前紀』に加筆したものと思われる。
  3. ^ 参考:「隣」不詳。「毛憐」のことか。

参照文献・史料[編集]

  • 茅瑞徵『東夷考略』1621 (中国語)
  • 顧秉謙?明神宗實錄』1630年? (中国語)
  • 稲葉岩吉『清朝全史』早稲田大学, 1914年 (国立国会図書館デジタルコレクション:上巻/下巻)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻222, 清史館, 1928年 (中国語)
  • 孟森『滿洲開國史講義』中華書局, 2006年 (中国語)