コンテンツにスキップ

山本泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本 泰
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府[1]
生年月日 (1945-07-07) 1945年7月7日
没年月日 (2020-08-11) 2020年8月11日(75歳没)
身長
体重
177[注 1] cm
74[注 1] kg
選手情報
投球・打席[注 1]投右[注 1]
ポジション 外野手[注 1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

山本 泰(やまもと やすし、1945年7月7日 - 2020年8月11日[4])は、日本アマチュア野球選手、学生野球指導者、プロ野球スカウト[1][5][6][7]。旧姓は鶴岡(つるおか)[2]

父は南海ホークス監督の鶴岡一人[4][8][9][10][11][12]。弟はミズノ常務取締役の鶴岡秀樹。

経歴[編集]

山口県生まれ[12][13][注 3]大阪府出身[1][12]。物心ついた頃から、父にくっついて遠征先まで行き[11]、南海の選手たちと家族同様に育った[11]。野球をやるようになると、いちいち親父の名を引き合いに出されるのがイヤで「くそったれオヤジー!」と思っていたが、父の影響が大きいのは認めざるを得なかった[11]大阪府大阪市立阪南中学校準硬式[12]のエースで四番で近畿大会で優勝したら、「さすが鶴岡二世」と注目を浴びた[11]。同校卒業後、父からの指示で[12]神奈川県法政大学第二高等学校に進学[7][11][13]。1年夏に左翼手として、エース柴田勲を擁した1961年第43回全国高等学校野球選手権大会に出場[12][13]。1回戦は先発し安打も放ったが、足を負傷し2回戦からは出場せず[12]。チームは準決勝で、尾崎行雄らのいた浪商に延長11回敗退したが[14]、自身はスタンドで観戦[12]。その後は控え投手も兼ね1962年1963年の夏はともに県予選準決勝に進出するが、いずれも慶應高に敗退、甲子園には届かなかった。1年上のチームメートには村上雅則がいた[12]

卒業後は法政大学法学部に進学[11]東京六大学野球リーグでは3年から外野手のレギュラーになり[11]、4年時に父子二代で主将を務める[11]。2年生エース山中正竹を擁し、三番打者として、1967年秋季リーグ優勝[13]。在学中2回の優勝を経験した。大学同期に秋元国武、1学年下には田淵幸一、山本浩司(のちの山本浩二)、富田勝の「法政三羽烏」がいた。豪放磊落な性格で、下級生を引き連れて新宿で飲み歩いた[11]。同年11月のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから12位指名される[2][12]が、これは監督である父がプロ入りを断念させるためにあえて指名したものであった[8][12]

大学卒業後[7]社会人野球日本楽器[2]に入社[11]1968年から都市対抗野球大会に3年連続で大昭和製紙補強選手として出場[12]1970年大会では四番としてチームの2回目の優勝に貢献した[12][15]。その後日拓観光[3]でプレー[11][12]。日拓のプロ野球進出で(日拓ホームフライヤーズ[12]、プロ野球でプレーを、という話もあったが、断り大阪に戻る[12]。父がPL学園高校に野球のアドバイスをするなど[12]PL教団と付き合いがあったことから[12]、父の勧めで[12]1973年PL学園高校野球部コーチに就任[11][12]。翌1974年に同校野球部監督へ就任[7][11]。監督就任にあたり、父から「監督はしんどい稼業だぞ。胃が痛むのはまだしも、死にたくなるくらい苦しいときがある。絶対に泣き言はいわんと誓ってやれ」と言われた[11]。監督就任と同時に結婚し、すぐに2人の娘に恵まれて、自分も人の子の親となって初めて父の大きさが分かった[11]。父のおかげで各界の優れた人物にも会え、人間形成に役立ったという[11]。当時のPL野球部は、キャッチボールもろくにできない部員がいるレベル[12]。自身の意識を変え、レベルを下げて教えようと、基本を徹底的に叩き込んだ[12][16]1976年第58回全国高等学校野球選手権大会で準優勝(優勝は 桜美林[7][11]1978年第60回全国高等学校野球選手権大会は、逆転のPLで初優勝[1][4][7][10][11][16][17]、常勝チームの礎を築く[7][10][12][16]。PLの初優勝で大阪の高校野球勢力地図は書き換えられた[10]。父子二代の"鶴岡野球"が花開き[11]、学園もファンも父子鷹の「御堂筋パレード」の実現を期待し[11]、準備を進めていたが、決定寸前で[11]高野連より「高校球児がそんなハナバナしいパレードなどやる必要ない。中止しせよ」と勧告を受け[11]、やむなく優勝パレードは、地元の富田林駅から富田林市役所までに変更された[11]。監督以下選手が6台のジープに分乗して、道幅も狭い1.3キロに道をゆっくり1時間かけて行進し、地元ファン2万5,000人が熱狂し、交通はマヒ状態になった[11]。このころまで鶴岡姓だったが、のちに母親の姓である山本姓に代えている[注 4]1980年の夏を最後に、中村順司へ後を譲り退任[4][18]

PL学園退任後は、開校間もない大阪産業大学高校野球部監督を務め[1][7][10][19][20]、同校野球部にPLの野球そのものを引き継ぎ[19]今中慎二を徹底的に鍛え上げるなどで[1][10][19][20]大阪桐蔭野球部の礎を築く[1][10][19][20]。今中は「山本監督は星野仙一監督以上でしたね」[20]「今のオレがあるのは、おっさんのおかげやから」などと話す[1]1990年から任期4年で法大監督に就任[21]。その間、法政大学野球部監督就任のため[7]、同通信教育部法学部法律学科へ再入学し、学士を取得した(1977年卒業)[7]。法大監督在任中に東京六大学リーグ戦の優勝は果たせなかったが、1990年の秋季リーグ戦は立教大学と優勝決定戦まで縺れ込む熱戦を繰り広げたほか、1992年の春季リーグ戦では明治大学と「勝ち点を挙げた方が完全優勝」という展開まで持ち込んだ[注 5]1993年秋季リーグ戦終了後に任期満了で監督を退任し、後任に山中正竹が就任した。

その後は大阪近鉄バファローズスカウトとしてプロ球界に活動の場を移し[4][6][7][注 6]岩隈久志などの獲得に尽力した[5][6][22]2004年暮れの同球団解散後にシアトル・マリナーズのスカウトへ就任し[7][16]、就任10年間で岩隈、城島健司川崎宗則らを担当した[6]2009年花巻東高等学校で行った高校卒業後にメジャーを希望する菊池雄星と面談では、敢えて「日本のプロ野球から始めた方がいい」とアドバイスした[6]

2015年マリナーズのスカウトを退任後[6]、2017年10月からは、母校の法政二高のコーチとして同時期に復帰した根本恭一監督をサポートした[9]

2020年8月9日、少年野球の指導中にグラウンドで倒れ[16]、2020年8月11日1時30分、腹部大動脈瘤破裂のため、東京都府中市の病院で死去[4][16]。75歳没。

監督としての成績[編集]

甲子園での成績[編集]

大会名 出場校 出場数 成績 備考
選抜高等学校野球大会 PL学園 2回 5勝2敗
全国高等学校野球選手権大会 PL学園 3回 9勝2敗 優勝1回
通算 5回 14勝4敗 優勝1回、勝率.778

東京六大学リーグ戦での成績[編集]

  • 8シーズン中、2位2回、3位4回、4位2回
  • なお、山本は在任8シーズンで優勝が無かったため、1990年4月入学生は1956年入学生以来の「優勝経験ゼロで卒業」となった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c d e 大学時代のプロフィール…[2]
  2. ^ 一部資料より、監督という旨の記載はないが、日拓観光ののちPL学園に籍を置いていた旨が明記[3]
  3. ^ 山口県出身とする情報については、次の資料[3]も参照。
  4. ^ 週刊ベースボール増刊『大学野球』1990年春季リーグ戦展望号によると、実生活では先に変えていたとのことで、子供が戸惑わないよう野球関係でも山本姓で統一した。
  5. ^ この時は先勝し王手をかけた後、2連敗して勝ち点を落とした。
  6. ^ 次の資料でも、法大監督ののち近鉄へ入団したことが記載[3]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h “山本泰さん 大阪・PL学園高野球部、法政大野球部の元監督”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). (2020年8月12日). オリジナルの2020年11月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201102012607/https://www.tokyo-np.co.jp/article/48466 2024年6月8日閲覧。 
  2. ^ a b c d e 『プロ野球ドラフト全史 2002年最新版』(『B.B.MOOK』第243号、『スポーツ・スピリット21』シリーズ第9号。2003年1月15日、ベースボール・マガジン社発行 ISBN 978-4583612102)に掲載された、日本プロ野球ドラフト会議歴代全指名選手データベースを参照。「鶴岡 泰」(つるおか やすし)の名前で記載。
  3. ^ a b c d e f g h i 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』(『ホームラン』2002年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P175掲載「パ・リーグ スカウト(編成部)一覧」 ※近鉄スカウトのひとりとして「山本泰」の名が記載。
  4. ^ a b c d e f “山本泰さん死去 PL学園野球部の元監督、初優勝に導く”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2020年8月12日). オリジナルの2022年2月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220221191753/https://www.asahi.com/articles/ASN8D55GDN4PPTQP00J.html 2024年6月8日閲覧。 
  5. ^ a b 加藤弘士 (2020年8月12日). “「絶対に獲りたい選手がいます」ドラフト直前、球団社長に直談判して実現した「近鉄岩隈5位指名」…山本泰さん悼む”. スポーツ報知 (報知新聞社). オリジナルの2024年6月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240608083015/https://hochi.news/articles/20200812-OHT1T50016.html?page=1 2024年6月8日閲覧。 
  6. ^ a b c d e f “追悼・元PL学園監督山本泰さん 連載で語った舞台裏の数々”. 日刊ゲンダイDIGITAL (日刊現代). (2020年8月13日). オリジナルの2020年10月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201010224849/https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/277284 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 山本泰さん 法学部 法律学科”. 法政ライフ. 法政大学通信教育部. 2022年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧。山本泰 - 卒業生・在学生の声 - 法政大学通信教育部公式サイト内インタビュー(2013年当時取材…※リンク先より、今年68歳になるという旨の発言あり)
  8. ^ a b 鶴岡一人、山本泰 - 『プロ野球2世代写真展 「野球一族」 いにしえ編』(時事通信社ウェブサイト内、Internet Archive))
  9. ^ a b 小西斗真「78年夏、PL学園高を率いて頂点へ。母校・法政二高の復活に情熱を燃やす山本泰氏」『週刊ベースボールONLINEベースボール・マガジン社、2018年4月8日。2024年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧
  10. ^ a b c d e f g 小西斗真「まさか…「大阪桐蔭」初陣は公立校に初戦敗退「第1期生」今中慎二が振り返る“常勝軍団”の黎明期「100人いた同期生が5月には半分以下に」」『Number Web文藝春秋、2023年8月2日。2023年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「《秘話》 奇跡の連続大逆転で全国制覇ー PL学園 鶴岡泰監督に息づく"ド根性父子鷹"野球人生」『週刊明星』1978年9月3日号、集英社、36–39頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w ドジャース戦法を熟知した山本泰(1)(2)(3)(4)(5)
  13. ^ a b c d 朝日新聞、1978年8月21日付朝刊 (13版、3面)
  14. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  15. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  16. ^ a b c d e f "「逆転のPL」で初V導いた名将・鶴岡泰さんが急死 夏のセンバツ開幕翌日に…". サンケイスポーツ. 産経デジタル. 12 August 2020. 2020年8月12日閲覧
  17. ^ “『逆転のPL』山本泰・元監督死去「やんちゃな僕でも信頼してくれた。粘って粘って逆転は選手との信頼関係あった」セガサミー西田監督が追悼”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (中日新聞社). (2020年8月11日). オリジナルの2024年6月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201001095430/https://www.chunichi.co.jp/article/103430 2024年6月8日閲覧。 
  18. ^ 元PL学園・中村順司編(4) 選手との交換日誌契機に“実力優先”廃止 - 『ZAKZAK』(夕刊フジニュースサイト)内連載記事『高校野球 名将列伝』2014年8月24日付
  19. ^ a b c d 柳川悠二「大阪桐蔭野球部 PLとの差を埋めた「付き人制度の廃止」」『NEWSポストセブン小学館、2017年7月11日。2023年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧
  20. ^ a b c d 山口真司「客前での“懲罰”「今だったらあり得ない」 攻撃中ずっとウサギ飛びの鬼指令」『Full-Count』Creative2、2023年11月19日。2023年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧
  21. ^ 朝日新聞、1989年11月30日付朝刊 (14版、23面)
  22. ^ “山本泰さん 大阪・PL学園高野球部、法政大野球部の元監督”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年10月19日). オリジナルの2021年2月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210228084112/https://www.nikkansports.com/baseball/column/analyst/news/202010190000872.html 2024年6月8日閲覧。 今年もあの季節がやってきた・・・プロ野球獲るべきか、見送るべきかスカウトが迷うとき”. 現代ビジネス. 講談社 (2011年11月27日). 2024年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧。

関連項目[編集]