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吉良満氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉良 満氏
時代 鎌倉時代後期
生誕 不明
死没 弘安8年11月17日1285年12月14日
別名 足利上総三郎
戒名 開山檀那自省公大禅定門
官位 上総介従五位下左衛門尉
幕府 鎌倉幕府 越前国守護
主君 宗尊親王惟康親王
氏族 三河吉良氏
父母 父:吉良長氏、母:覚了院本成大姉
兄弟 満氏今川国氏、女子(土御門顕方室)、女子(上野義有室)
足利泰氏
貞氏貞義荒川貞弘、女子(北条時国室)
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吉良 満氏 / 足利 満氏(きら みつうじ / あしかが みつうじ)は、鎌倉時代後期の武将御家人三河国西条領主。越前国守護[1]。妻は足利泰氏の娘[2]上総介従五位下左衛門尉[3]

生涯[編集]

吉良満氏が創建した実相寺

吉良長氏嫡男として誕生。

吾妻鏡』には建長4年(1252年4月1日、新将軍宗尊親王の鎌倉入りの随兵として登場するのが最初で、正嘉元年(1257年)から廂番、正元2年(1260年)には昼番衆として表れる。弘長3年(1263年)8月の記事を最後に『吾妻鏡』から名前が見えなくなるが、三河国吉良庄(現・愛知県西尾市)へ帰ったらしい。

文永8年(1271年)、吉良庄に東福寺円爾を招き、実相寺を創建した(『聖一国師年譜』『元享釈書』)[4][注 1]

文永の役後、防備体制強化の一環として、越前国守護に任ぜられた[1]。鎌倉時代に足利氏の庶流で守護になったのは満氏が唯一であり、異例の人事だった。

弘安7年(1284年)、北条時宗が出家、死去。この頃、満氏も出家した(『尊卑分脈』)[4]。直後に、足利家時が自害[4]北条時国[注 2]が殺された[5]

弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉で霜月騒動が起こり、子・貞氏(足利上総三郎)が殺された(『鎌倉年代記』裏書)[5][注 3]。貞氏の跡は、その弟・貞義が継いだ[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 江戸期に吉良義定華蔵寺を菩提寺とするまで西条吉良氏の菩提寺であった。
  2. ^ 満氏の娘を妻とすると見られる(『尊卑分脈』)[5]
  3. ^ 満氏が殺されたと比定されているのは誤り[5]

出典[編集]

  1. ^ a b 足利市史編さん委員会 1977, p. 170.
  2. ^ 谷口 2022, p. 41.
  3. ^ 尊卑分脈 1904, p. 88.
  4. ^ a b c 谷口 2022, p. 42.
  5. ^ a b c d e 谷口 2022, p. 43.

参考文献[編集]

  • 足利市史編さん委員会 編『近代 足利市史』 第一巻《通史編 原始〜近代(二)》、足利市、1977年3月1日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9641197 (要登録)
  • 「吉良町史 原始・古代・中世前期」
  • 「吉良町史 中世後期・近世」
  • 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6 
  • 柳史朗「吉良氏十五代記」(1977年)
  • 尊卑分脈』 第三輯第十二囘、吉川弘文館、1904年6月25日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991591 オープンアクセス