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ノート:日野富子

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■ 1489義尚の死後「幕政への影響力を失った」とはどうでしょうか、義政没後義視と妥協し、逃亡先の美濃からの上京を認め、義材を将軍にしたのは富子の策略でしたから。  maco 2004.10.1.

日野富子の名称について[編集]

引用図書の「戦国を生きた公家の妻たち」後藤みち子著 P.138 に「理由」という文言はありません。 「婚家の名字+妻の社会的呼称」は公家の正妻についての説明部分です。 日野富子は公家の正妻ではありません。

それとは段落を分け 坂田聡氏の引用から中世後期の話として 女性が名字を用いることはまれであったこと 夫婦別氏の慣習を夫婦別名字と勘違いしているとの指摘の例として日野富子の話が続きます。

著者は 「日野は富子の実家の名字であるので、富子が婚姻すれば名乗ることはないはずである。」 という記述しかしていないので、出典に正確に訂正修正した。--ほろほろ鳥会話2022年11月16日 (水) 00:04 (UTC)[返信]