エフレム・ジンバリスト

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エフレム・ジンバリスト
Efrem Alexandrovich Zimbalist
エフレム・ジンバリスト (1933年)。
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影。
基本情報
生誕 (1889-04-09) 1889年4月9日
出身地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国ロストフ・ナ・ドヌ
死没 (1985-02-22) 1985年2月22日(95歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 ヴァイオリニスト
担当楽器 ヴァイオリン

エフレム・ジンバリスト (Efrem Alexandrovich Zimbalist, 1889年4月9日-1979年1月4日) とは、ロストフ・ナ・ドヌ出身のヴァイオリニスト、作曲家、音楽教師、ピアニストである[1][2]レオポルド・アウアーに師事したのちアメリカ合衆国に渡り、カーティス音楽院で教鞭を取った[3]。息子は俳優のエフレム・ジンバリスト・ジュニア[4]

生涯[編集]

幼少期[編集]

1889年4月9日、ロストフ・ナ・ドヌに生まれる[1][2]。父アーロン(アレクサンダー)はロストフ・オペラのヴァイオリン奏者および指揮者であったが、息子が生まれた時には既に指揮活動を中心としていたため、エフレムは父がヴァイオリンを弾くのを聴いたことはないと回想している[1][5]。母マリアはプロの音楽家ではなかったが好楽家で、オーケストラのコンサートやオペラに息子を連れて行った[6]

エフレム・ジンバリストは聴覚と記憶力に優れた子どもで、絶対音感があった[6]。また、聴いた音楽をそのままピアノで再現することができた[6]。そのため、父アーロンは4歳の息子に4分の1サイズのヴァイオリンを与え、教えるようになった[6]

ジンバリストは5歳の時に、帝国音楽院ロストフ分校に入学した[6]。音楽院では、シャバン教授にヴァイオリンを師事したほか、合唱団の一員として歌ったりした[6][7]。ほかにも、ホテルで観光客のために演奏したり、チャリティコンサートに出演したりした[7]。また、9歳の時にはオペラ巡業のコンサートマスターを務めた[1][8][9]。巡業に際しては、リハーサルで指揮をすることすらあった[9]

ジンバリストは10歳からザリーン教授に師事するようになったが、1900年にロストフ分校を訪れてジンバリストの演奏を聴いたアレクサンドル・ヴェルジビロヴィチアレクサンドル・ジロティは、彼はペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアーに師事するべきだと推薦した[9]。その後ジロティが両親を説得し、ジンバリストはアウアーに師事することとなる[9]

アウアーへの師事[編集]

1901年には、ペテルブルグ音楽院でレオポルド・アウアーに師事するようになった[1][注 1]。アウアーの家で行われたオーディションでは、カール・ゴルトマルクの『ヴァイオリン協奏曲』第1楽章を演奏し、「とても良い耳を持っており、素晴らしい才能がある。そして非常に音楽的だ」と評された[10]。なお、当時ユダヤ人の子どもはペテルブルクに住むことが許されていなかったため、アウアーはジンバリストがペテルブルク音楽院の近くに住むことができるよう手配した[11][10]

ジンバリストの兄弟弟子にはヤッシャ・ハイフェッツナタン・ミルシテインミッシャ・エルマントーシャ・ザイデルらがいる[12]

デビュー後のヨーロッパでの活躍[編集]

1907年には、金メダルを獲得してペテルブルグ音楽院を卒業した[8]。卒業に際しては、ルビンシテイン賞と1200ルーブルが与えられた[8]

同年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏してベルリンデビューを果たしたほか、ロンドンでもデビューした[1][13]。ジンバリストの評判は高まり、その後はヨーロッパ各地への演奏旅行を行った[2][8]。特に、1910年にアルトゥール・ニキシュが指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と演奏した、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』は高い評価を得た[1]

アメリカでの活躍[編集]

1911年10月27日には、ボストン交響楽団アレクサンドル・グラズノフの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏して、アメリカデビューを果たした[1][13]。なお、これが本作のアメリカ初演となった[14]。アメリカでの成功を受けて、ジンバリストは移住を決意し[1]、1911年に帰化した[14]。1928年には、カーティス音楽院のヴァイオリン・クラスの学部長に就任し、1941年から1968年にかけて院長を務めた[3][8]

なお、1920年代にはすでに、ジンバリストはヨーロッパではあまり注目されない存在となったという[15]

引退[編集]

1949年にはニューヨークで引退公演を行ったが、その後もしばしば演奏活動を行なっている[3]。1952年には、ジンバリストに捧げられたジャン=カルロ・メノッティの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏しているほか、1955年にもフィラデルフィア管弦楽団と共演してベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏している[3]

1985年2月22日、アメリカ合衆国ネバダ州のリノにて死去[1][2]。なお、フィラデルフィアで死去したとする資料もある[16]

人物[編集]

容姿[編集]

ハラルド・エッゲブレヒトは、ジンバリストは細身かつエレガントで、好感の持てる容姿であったと述べている[8]。また、ヨーアヒム・ハルトナックはジンバリストについて「ほっそりして優雅であり、世慣れたところがあり、彫りの深い、人の関心をそそる芸術的容貌に恵まれて」いたと述べているほか、ジンバリストの手は大きく、指が長かったと指摘している[17][18]

性格[編集]

穏やかかつ控えめな性格で、仲間の音楽家たちからは非常に好かれていた[3][19]。また、パーティーでは気前よく振る舞ったという[19]

家族[編集]

父アーロンと母マリアの間には7人の子どもがおり、エフレムは第1子であった[5][20]。1914年には、ルーマニア出身のソプラノ歌手アルマ・グルックと結婚した[8][21]。2人はしばしば合同演奏会を開き、ジンバリストがピアノを弾いて伴奏することもあった[1]。アルマと間には息子エフレム・ジンバリスト・ジュニアが生まれ、のちに俳優となった[4]。また、ジンバリストは1943年に、カーティス音楽院の設立者であるメアリー・ルイーズ・カーティス・ボックと再婚した[1][3]

趣味[編集]

小さい頃から読書が好きで[6]、書物と珍しい写本を蒐集するようになった[19]。また、本以外にもワインや葉巻を好んだ[19]。ほかにも、パーティでは弦楽四重奏の演奏、豪華な食事、ブリッジやポーカーといったギャンブルを楽しんだという[19]

音楽性[編集]

演奏スタイル[編集]

トーシャ・ザイデルと同様、レオポルド・アウアー門下特有の朗々とした暖かさと大きなボリュームを有していると評されている[17]。しかし、同じくアウアー門下であるミッシャ・エルマンヤッシャ・ハイフェッツとは異なるスタイルであると評されることもある[3]

レパートリー[編集]

ジンバリストは、後期ロマン派の作曲家や、19世紀末から20世紀初頭の作曲家の作品を積極的に取り上げた[18]。特に、エドゥアール・ラロスペイン交響曲』の演奏については、初演者であるパブロ・サラサーテ以来、並ぶ者がないと絶賛された[22]。なお、ハラルド・エッゲブレヒトは、ジンバリストは同時代の作品や、初期バロック古典派以前の音楽も研究していたと指摘している[23]

作曲活動[編集]

ジンバリストはヴァイオリン曲を中心に作曲活動を行った[24]。そのほかにも、オペラ交響詩ミュージカルを作曲したり[2][8]、編曲活動を行ったりしたが[3]、それらが演奏される機会はほとんどない[19]

ジンバリストの作品には、以下のものがある。

  • ヴァイオリンと管弦楽のためのスラヴ舞曲[13]
  • オーケストラのための「アメリカン・ラプソディー」[16]
  • 初期の独奏ヴァイオリン音楽[3]
  • オペラ『ランダーラ』[3]
  • チェロ協奏曲[25]
  • 交響詩『ある芸術家の肖像』[3]

教育活動[編集]

1928年からはカーティス音楽院で教鞭を取り、1941年から1968年には院長を務めた[3]。門下生には江藤俊哉オスカー・シュムスキーノーマン・キャロル英語版、シュメル・アシュケナージらがいる[2][3][8]。また、ジンバリストは教則本の作成も行ったほか[24]、1962年と1966年にチャイコフスキー国際コンクールの審査員を務めた[16]

レコーディング[編集]

1911年に最初のレコードを作成した[15]。また、1920年代、1930年代には、自分自身が作曲した作品や、マックス・レーガーの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』といった、モダンな作品を録音した[15]。なお、ジンバリストの録音は、米ビクターが行った[14]

評価[編集]

音楽家からの評価[編集]

カール・フレッシュはジンバリストについて「テンポがゆっくりしすぎで、ヴィブラートの幅も広すぎる」と批判しつつも、アウアー門下のなかでも数少ない、興味深いヴァイオリニストであると述べている[8][15]。また、フリッツ・クライスラーは、ジンバリストと共演したヨハン・セバスチャン・バッハ2つのヴァイオリンのための協奏曲』の録音が、自身の最も優れた録音であると評していた[18][26]

評論家からの評価[編集]

ボリス・シュヴァルツは『ニューグローヴ世界音楽大事典』上で、ジンバリストについて以下のように評している[3]

彼は通常、エルマンハイフェッツとともに、全盛期のアウアー門下を代表すると見られているが、3人は非常に異なっている。彼は、エルマンのように感情的でもなく、ハイフェッツのように完璧主義者でもないが、その演奏の力強さは、音楽への緻密な洞察から生まれている。穏やかな気質のため、ゆっくりしたテンポを好み、その演奏は気高く、きめが細かく、決して外交的ではなかった。一般的に彼はヴィルトゥオーソ的な技量の誇示を避けたが、パガニーニの曲の演奏にはひらめきのある技巧を披露している[3]

また、ハラルド・エッゲブレヒトは、以下のように評している[8][27]

彼は何よりも確実で、けっして押し付けがましくならないヴァイオリン演奏をしている。ごく自然な音の配分、ゆっくりとし洗練されたヴィブラート、いかなる左手のポジションでも自由に響く音質、まるで明るく銀色に光るような音色で演奏する。キャリアを積み始める前から、彼は、演奏する際に汗をかくことを避け、ゆったりと構え集中力を高めて演奏することを心がけている[8]
この多才な音楽性を持った、すばらしい音色を様々なテクニックで披露するジンバリストは、ヴァイオリンを通して、小鳥の囀りを表現できた。ジンバリストほど高音を自由に操って、めりはりをつけた音色を演奏できるヴァイオリニストは、まず他に見られないであろう。一方で、危機感に満ちた、つぶされそうな、叫ぶような、あるいはきーきーとした音でさえも、ジンバリストの手にかかると、自然そのものに聴こえ、このヴァイオリンの直接的な美しさに、思わず涙が出てきそうになる[27]

ジンバリストはよく「曲を通して自分をさらけ出すことはしない」と評された[15]。ハラルド・エッゲブレヒトは、もしジンバリストが活躍した時期にデジタル録音が誕生していたら、ジンバリストの「作曲家を十分に浮き出させた」演奏は、より鮮明に聞き取れただろうと述べている[15]

一方、ヨーアヒム・ハルトナックは「ジンバリストの音楽家としての力量は、エルマンほどの幅広さを持っているとはいえなかった」と述べている[17]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ペテルブルグ音楽院に入学したのは1903年とする文献もある[8]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Schwarz 1994, p. 79.
  2. ^ a b c d e f 新訂 標準音楽辞典 2008, p. 928.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Schwarz 1994, p. 80.
  4. ^ a b Hoaglin 1972, p. 7.
  5. ^ a b Malan 2004, p. 1.
  6. ^ a b c d e f g Malan 2004, p. 2.
  7. ^ a b Malan 2004, p. 3.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m エッゲブレヒト 2004, p. 258.
  9. ^ a b c d Malan 2004, p. 5.
  10. ^ a b Malan 2004, p. 8.
  11. ^ Malan 2004, p. 7.
  12. ^ ミルスタイン、ヴォルコフ 2000, p. 39.
  13. ^ a b c 音楽大事典 1982, p. 1266.
  14. ^ a b c 藁科 1982, p. 483.
  15. ^ a b c d e f エッゲブレヒト 2004, p. 259.
  16. ^ a b c 演奏家大事典 1982, p. 810.
  17. ^ a b c ハルトナック 1998, p. 95.
  18. ^ a b c ハルトナック 1998, p. 96.
  19. ^ a b c d e f キャンベル 1983, p. 189.
  20. ^ Malan 2004, p. 4.
  21. ^ Schwarz 194, p. 79.
  22. ^ キャンベル 1983, p. 188.
  23. ^ エッゲブレヒト 2004, p. 260.
  24. ^ a b 音楽大事典 1982, p. 1267.
  25. ^ 藁科 1982, p. 484.
  26. ^ ハルトナック 1998, p. 97.
  27. ^ a b エッゲブレヒト 2004, p. 261.

参考文献[編集]

英語文献[編集]

  • Hoaglin, Jesse L. (1972-12). “Efrem Zimbalist Jr a man of many talents”. Hollywood Studio Magazine (San Fernando Valley Pub. Co.) 7: 6-7. https://archive.org/details/hollywood-studio-magazine-1972-12/page/n5/mode/2up?q=Efrem+Zimbalist. 
  • Malan, Roy (2004). Efrem Zimbalist a life. Pompton Plains, NJ : Amadeus Press. ISBN 9781574670912. https://archive.org/details/efremzimbalistli00roym/mode/2up?q=efrem+zimbalist 

日本語文献[編集]

  • Boris Schwarz「ジンバリスト, エフレム(・アレクサンドロヴィチ)」『ニューグローヴ世界音楽大事典 第9巻』、講談社、1994年、79-80頁、ISBN 4061916297 
  • ハラルド・エッゲブレヒト 著、シュヴァルツァー節子 訳『叢書20世紀の芸術と音楽 ヴァイオリンの巨匠たち』アルファベータ、2004年。ISBN 4-87198-462-1 
  • 「Zimbarist, Efrem エフレム・ジンバリスト」『演奏家大事典Ⅱ M-Z』、財団法人音楽鑑賞教育振興会、1982年、810頁。 
  • 「ジンバリスト」『音楽大事典第3巻 シーテ』、平凡社、1982年、1266-1267頁、ISBN 4-582-12500-X 
  • マーガレット・キャンベル 著、岡部宏之 訳『名ヴァイオリニストたち』東京創元社、1983年。 
  • 「ジンバリスト、エフレム」『新訂 標準音楽辞典 アーテ』、音楽之友社、2008年、928頁、ISBN 978-4-276-00007-0 
  • ヨーアヒム・ハルトナック 著、松本道介 訳『二十世紀の名ヴァイオリニスト』白水社、1998年。ISBN 4-560-03738-8 
  • ナタン・ミルスタイン、ソロモン・ヴォルコフ 著、青村茂、上田京 訳『ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』春秋社、2000年。ISBN 4-393-93460-1 
  • 藁科雅美「ジンバリスト、エフレム」『名演奏家事典(中)シミ〜フレイレ』、音楽之友社、1982年、483-484頁、ISBN 4-276-00132-3