「ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)」の版間の差分

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[[ファイル:George Macartney, 1st Earl Macartney by Lemuel Francis Abbott.jpg|thumb|right|200px|ジョージ・マカートニー]]
[[ファイル:George Macartney, 1st Earl Macartney by Lemuel Francis Abbott.jpg|thumb|right|200px|ジョージ・マカートニーの肖像画。[[レミュエル・フランシス・アボット]]画、1785年ごろ。]]
初代マカートニー伯爵'''ジョージ・マカートニー'''({{lang-en|George Macartney, 1st Earl Macartney}}, [[バス勲章|KB]] [[1737年]][[5月14日]] - [[1806年]][[5月31日]])は、[[イギリス]]の[[外交官]]、植民地行政官。[[アイルランド]][[アントリム県]]生まれの[[コットランド人]]
初代マカートニー伯爵'''ジョージ・マカートニー'''({{lang-en|George Macartney, 1st Earl Macartney}} {{post-nominals|country=GBR|KB2|PC|PCi|FRS|FSA}}、[[1737年]][[5月14日]] [[1806年]][[5月31日]])は、[[イギリス]]の[[外交官]]、植民地行政官。{{仮リンク|在ロシアイギリス大使|en|List of ambassadors of the United Kingdom to Russia|label=駐ロシア大使}}、{{仮リンク|アイルランド主席政務官|en|Chief Secretary for Ireland}}、{{仮リンク|グレナダ総督|en|List of colonial governors and administrators of Grenada}}、{{仮リンク|マドラス総督|en|List of colonial governors and presidents of Madras Presidency}}、{{仮リンク|在中イギリス大使|en|List of ambassadors of the United Kingdom to China|label=駐清大使}}({{仮リク|マカーニー使節団|en|Macartney Embassy}})、{{仮リンク|イギリス領南アフリカ植民地総督|en|List of governors of British South African colonies|label=ケープ植民地総督}}という経歴は『アイルランド人名事典』で「地球の四隅を訪れた」と評され、財を成したことから「それほど裕福でない家系出身でも、運と能力に恵まれば、18世紀の大英帝国で出世できる」事例と評された<ref name="DIB" />


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[ダブリン]]の[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティカレッジ]]を卒業後、外交官として勤務し始めた。1763年には[[七年戦争]]の講和会議に参加し、[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]交渉の記録を行っている。[[1764年]]には[[ロシア帝国|ロシア]]の[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]駐在公使を務める。以後、[[英領西インド諸島|英領カリブ諸島植民地]]総督、[[チェンナイ|マドラス]]総督([[イギリス領インド]])など植民地行政官を歴任した。
ジョージ・マカートニー({{lang|en|George Macartney}}、1779年1月12日没、ジョージ・マカートニーの次男)と妻エリザベス(1755年没、ジョン・ウィンダーの娘)の息子として、1737年5月3日に[[アントリム県]]リッサヌア({{lang|en|Lissanoure}})で生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|language=en|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor-last2=Doubleday|editor-first2=Herbert Arthur|title=The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Lindley to Moate)|volume=8|date=1932|edition=2nd|publisher=The St. Catherine Press|location=London|pages=323–325|url=https://www.familysearch.org/library/books/records/item/594161-redirection|url-access=registration}}</ref><ref name="DIB">{{Cite encyclopedia|language=en|url=https://www.dib.ie/biography/macartney-george-a5101|title=Macartney, George|encyclopedia=[[アイルランド人名事典|Dictionary of Irish Biography]]|last=Thomas|first=Bartlett|publisher=Cambridge University Press|location=United Kingdom|date=October 2009|editor-last=McGuire|editor-first=James|editor2-last=Quinn|editor2-first=James|doi=10.3318/dib.005101.v1}}</ref>。マカートニー家はスコットランド出身の家系であり、マカートニーの曽祖父の代、1649年にスコットランド南西部の{{仮リンク|カークブリーシャー|en|Kirkcudbrightshire}}から[[アルスター]]に移住し、祖父の代に財を成して地主になった<ref name="DIB" />。しかし祖父は次男(マカートニーの父)に遺産を残そうとせず、遺言状で長男チャールズと孫ジョージに遺産を残した<ref name="DIB" />。


マカートニーは1745年7月18日に[[キルデア県]]{{仮リンク|リークスリップ|en|Leixlip}}の[[ボーディングスクール|寄宿学校]]に入学した<ref name="DIB" />{{Sfn|Roebuck|1983|p=xi}}。この学校は[[ダブリン大学]][[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]への進学を目指す学生向けの進学校であり、[[西洋古典学|古典学]]と[[フランス語]]を中心に教えた<ref name="DIB" />。マカートニーは1750年6月10日にトリニティ・カレッジに入学、『[[完全貴族要覧]]』では1759年に[[文学修士 (オックスフォード・ケンブリッジ・ダブリン)|M.A.]]の学位を修得したとし<ref name="Cokayne" />、『[[アイルランド人名事典]]』ではおそらく1754年に卒業したとしている<ref name="DIB" />。1757年秋に[[ロンドン]]に引っ越し、そこで大学時代の教師であったウィリアム・デニス({{lang|en|William Dennis}})の紹介を受けて[[エドマンド・バーク]]と親友になった<ref name="Cokayne" /><ref name="DIB" />。ロンドンでは当初[[リンカーン法曹院]]入学を目指したが、翌年に代わりに[[ミドル・テンプル]]に入学した<ref name="DIB" />。ちょうどこの時期に祖父が亡くなって遺産をいくらか相続し、さらに1759年に伯父チャールズが死去すると残りの遺産を相続したことで、マカートニーは弁護士を目指さず、代わりに[[大陸ヨーロッパ]]への旅行([[グランドツアー]])を計画した<ref name="DIB" />。
[[1769年]]には{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}となり、1772年の辞職とともに[[ナイト]]に叙された。[[1776年]]には[[グレナダ]]総督となり、マカートニー[[男爵]]([[アイルランド貴族]])に叙せられた。1768年には[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]議員(1776年まで)、{{仮リンク|グレートブリテン議会|en|Parliament of Great Britain}}議員となり、1781年まで務めた。[[1792年]]にはマカートニー[[伯爵]](アイルランド貴族)を受ける。


グランドツアーでは1760年にイタリア([[ミラノ]]、[[トリノ]]、[[ルッカ]]、[[ピサ]]、[[フィレンツェ]]、[[ボローニャ]]、[[ローマ]])を6か月間旅し、冬を[[ジュネーヴ]]で過ごした<ref name="DIB" />。ジュネーヴで政治家[[ヘンリー・フォックス (初代ホランド男爵)|ヘンリー・フォックス]](のちの初代[[ホランド男爵 (グレートブリテン貴族)|ホランド男爵]])の長男[[スティーブン・フォックス (第2代ホランド男爵)|スティーブン・フォックス]]に出会い、以降ホランド男爵家と親しくなった<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Macartney, George|volume=34|pages=404–406|last=Chichester|first=Henry Manners|author-link=ヘンリー・マナーズ・チチェスター}}</ref>。ホランド男爵家の邸宅である[[ホランド・ハウス]]にも頻繁に訪れ、『[[オックスフォード英国人名事典]]』ではスティーブンがギャンブルにのめりこんでおり、マカートニーがそれを止めることに期待が寄せられたためだとした<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=17341|title=Macartney, George, Earl Macartney|last=Thorne|first=Roland|date=21 May 2009|orig-date=23 September 2004}}</ref>。
イギリスと[[清朝]]との間で行われていた貿易は[[広州市|広州]]一港に限られていたため、[[1791年]]、マカートニーは前任の{{仮リンク|チャールズ・アラン・カスカート|en|Charles Allan Cathcart}}の病死で、貿易改善交渉のための全権大使に起用される。マカートニーはイギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が派遣する、[[乾隆帝]]の80歳を祝う使節団として派遣され、[[1792年]]9月に[[スピットヘッド]]からライオン号で本国を出発し、翌年7月に清へ到達。


1761年7月にスティーブンとともに一時帰国した後、12月には再びジュネーヴに向かい、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ヴォルテール]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]といった哲学者と知り合った<ref name="DIB" />。1763年、マカートニーとスティーブンは[[パリ]]でホランド男爵夫婦に会った後、フランスとオランダを旅し、マカートニーはさらにスティーブンの弟[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]とドイツを旅した<ref name="ODNB" />。
イギリスからでは初の使節ということで歓迎され、9月に[[熱河]]離宮で避暑滞在中の乾隆帝に謁見する。[[中華思想|華夷秩序]]に基づく[[中華世界]]において、周辺諸国からの外交使節は「[[徳#中華文明における徳|皇帝の徳]]」を慕っての[[朝貢]]使節と認識され、マカートニーは朝貢使節が皇帝に対して行う儀礼である[[三跪九叩頭の礼]](3回跪き、9回頭を地に擦りつける)をするよう要求される。彼はこれを拒否するが、最終的には清側が譲歩する形で、イギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いた。だが貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、帰国した。英清貿易の全権大使は次代の[[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)|ウィリアム・アマースト]]に引き継がれた。


=== 駐ロシア大使 ===
[[坂野正高]]訳注で『中国訪問使節日記』([[平凡社東洋文庫]]、初版1975年)がある。
1764年初に帰国すると、ホランド男爵は{{仮リンク|ミッドハースト選挙区|en|Midhurst (UK Parliament constituency)}}でマカートニーを当選させようとし、それが失敗した後は代わりとして1764年8月22日(『オックスフォード英国人名事典』では10月4日<ref name="ODNB" />)に{{仮リンク|在ロシアイギリス大使|en|List of ambassadors of the United Kingdom to Russia|label=在ロシアイギリス特命全権公使}}の官職をマカートニーに与えた<ref name="DNB" /><ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/macartney-sir-george-1737-1806|title=MACARTNEY, Sir George (1737-1806), of Lissanoure Castle, co. Antrim.|last=Drummond|first=Mary M.|access-date=2 March 2024}}</ref>。同年10月19日、出発する前のマカートニーは[[騎士爵]]に叙された<ref name="Cokayne" /><ref name="DNB" />。


[[ベルリン]]、[[グダニスク|ダンツィヒ]]経由で<ref>{{London Gazette|issue=10478|page=1|date=11 December 1764}}</ref>12月27日に[[サンクトペテルブルク]]に着いた後<ref>{{London Gazette|issue=10492|page=1|date=29 January 1765}}</ref>、在ロシア公使としてイギリスとロシアの通商条約交渉に取り掛かろうとしたが、病気になったことで交渉が延期された<ref name="ODNB" />。1765年8月に全権を与えられないままロシアと通商条約を締結し、イギリスのロシアにおける[[最恵国待遇]]を守ったが、ロシア経由の[[アフシャール朝]]ペルシアとの通商は解禁できず、条約が本国で拒否された<ref name="ODNB" />。再交渉を求められたロシアは怒ったが、最終的には再交渉に応じ、通商条約は1766年に締結され<ref name="ODNB" />、マカートニーは同年6月に[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]の{{仮リンク|白鷲勲章 (ポーランド)|en|Order of the White Eagle (Poland)|label=白鷲勲章}}を授与された<ref name="Cokayne" />。
帰国後は、[[イタリア]]での任務や[[ケープ植民地]]総督を歴任する。1795年には[[グレートブリテン貴族]]としてマカートニー男爵に叙せられた。[[1798年]]11月に健康を害し退職した。1806年[[ミドルセックス]]の[[チジック]] (Chiswick) で69歳で亡くなった。


[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]はマカートニーによるロシア皇帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]への演説を称え、[[エドマンド・バーク]]もすばらしいと思うだろうと述べた<ref name="DNB" />。マカートニーはロシアでの見聞について{{lang|en|''Account of the Russian Empire''}}を著し、1767年に私的に出版した<ref name="ODNB" />。
== その他 ==

子孫の一人であるジェーン・マカートニー(Jane Macartney)は2008年5月現在イギリスの新聞『[[タイムズ]]』の北京支社社長の任にあり、[[四川大地震]]の際に多くの報道を行った。({{仮リンク|南方週末|label=南方週末(南方周末)|zh|南方周末}}2008年5月29日D28面より)
=== 1度目の議員期 ===
マカートニーは1766年6月にホランド男爵に手紙を書き、外交官の仕事に不満はないと述べつつ、昇進の道がないため議会の議席を求めた<ref name="HOP" />。このときには首相が[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]に代替わりしており、大ピットが{{仮リンク|ハンス・スタンリー|en|Hans Stanley}}を駐ロシア大使に任命したことでマカートニーは1767年4月3日にサンクトペテルブルクを発ち、[[コペンハーゲン]]経由で8月に帰国した<ref name="ODNB" />。ホランド男爵はすぐにマカートニーの議会入りに向けた交渉をはじめ、{{仮リンク|ストックブリッジ選挙区|en|Stockbridge (UK Parliament constituency)}}、ついで{{仮リンク|ピーターズフィールド選挙区|en|Petersfield (UK Parliament constituency)}}での出馬を模索した<ref name="HOP" />。ピーターズフィールドでは一度内定に至ったが、スタンリーが赴任せず、マカートニーは11月20日に再度駐ロシア大使に任命された<ref name="HOP" /><ref name="ODNB" />。そこでマカートニーはピーターズフィールドでの後援者{{仮リンク|ジョン・ジョリフ (1696-1771)|en|John Jolliffe (of Petersfield)|label=ジョン・ジョリフ}}に辞退の手紙を書いてしまった<ref name="HOP" />。もっとも、『[[アイルランド人名事典]]』はマカートニーが通商条約交渉で[[ニキータ・パーニン]]を怒らせ、さらに女官2名と関係をもったことでエカチェリーナ2世の怒りも買い、ロシア宮廷では[[ペルソナ・ノン・グラータ]]同然になっており、再就任などできるはずもないと評していて<ref name="DIB" />、マカートニーは最終的にはロシアに赴任しなかった<ref name="Cokayne" />。

[[1768年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|コッカーマス選挙区|en|Cockermouth (UK Parliament constituency)}}から出馬して当選した<ref name="HOPCockermouth">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/cockermouth|title=Cockermouth|last=Brooke|first=John|author-link=ジョン・ブルック (イギリスの歴史学者)|access-date=2 March 2024}}</ref>。コッカーマスは{{仮リンク|ジェームズ・ラウザー (初代ロンズデール伯爵)|en|James Lowther, 1st Earl of Lonsdale|label=第5代準男爵サー・ジェームズ・ラウザー}}の懐中選挙区であり、ラウザーはマカートニーの義兄(妻の姉の夫)にあたる<ref name="HOP" />。

グレートブリテン庶民院における1度目の議員期では政府を支持し、1768年11月にラウザーに対する選挙申立の審議ではじめて発言した<ref name="HOP" />。[[ホレス・ウォルポール]]によれば、マカートニーの演説自体は称賛されたが、審議に大きな影響を与えることはできなかった<ref name="HOP" />。

=== アイルランド主席政務官と2度目の議員期 ===
1768年2月1日、ジェーン・ステュアート({{lang|en|Jane Stuart}}、1742年4月 – 1828年2月28日、イギリス首相[[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯爵)|第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート]]の娘)と結婚した<ref name="Cokayne" />。ジェーンは子供のときに患った[[天然痘]]で顔に[[瘢痕]]ができ、耳も悪かったが、マカートニーは真摯にジェーンを愛し、1786年6月の手紙でジェーンを{{lang|en|“my dearest love”}}と呼んでいる<ref name="DIB" />。ジェーンは一度妊娠したが流産し<ref name="DIB" />、結局子供はできなかった<ref name="Cokayne" />。

義母[[メアリー・ステュアート (ビュート伯爵夫人)|メアリー]]はマカートニーの再度のロシア赴任を禁じ、代わりに駐[[トリノ]]公使、[[戦時大臣]]といった官職が検討された<ref name="ODNB" />。ちょうどこの時期に選挙区での後援者ラウザーがマカートニーに議席を譲るよう圧力をかけており、その代償としてマカートニーはビュート伯爵の支持を受けて1769年1月1日に{{仮リンク|アイルランド主席政務官|en|Chief Secretary for Ireland}}に就任<ref name="ODNB" />、3月にグレートブリテン庶民院議員を退任した<ref name="HOP" />。

まだ主席政務官就任も決まっていない1768年7月に{{仮リンク|アーマー・バラ選挙区|en|Armagh Borough (Parliament of Ireland constituency)}}にて{{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons}}議員に選出され、1776年まで務めた<ref name="Cokayne" /><ref name="DIB" />。これは主席政務官の職務上必要であるためだった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Macartney, George Macartney, Earl|volume=17|page=193}}</ref>。1769年3月30日に{{仮リンク|アイルランド枢密院|en|Privy Council of Ireland}}の枢密顧問官に任命された<ref name="Cokayne" />。この時期、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の[[ジョージ・タウンゼンド (初代タウンゼンド侯爵)|第4代タウンゼンド子爵ジョージ・タウンゼンド]]は改革を進めようとして、現地の「アンダーテイカー」と政争を繰り広げており{{Refnest|group=注釈|18世紀アイルランドにおけるアンダーテイカー({{lang|en|undertaker}}、「請負人」)は行政を請負し、その代償として権力や政府の後援への影響力を得た有力者のことを指す。1760年代にはアンダーテイカーによる統治の非効率さが露呈しており、タウンゼンドはこの制度を改革しようとした<ref name="DIB" />。}}、マカートニーは一旦タウンゼンドの代表としてロンドンに戻ったが、内閣がアイルランド総督の改革に同意せず、[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の開会が近づいたことで9月に[[ダブリン]]に戻った<ref name="ODNB" /><ref name="DIB" />。マカートニーのロンドン行きにはもう1つの目的があった。すなわち、すでに駐ロシア大使を務めていたマカートニーにとって、アイルランド主席政務官就任は降格であり、ロンドンで駐スペイン大使の官職を得るための活動もしたが、失敗に終わっている<ref name="DIB" />。

1769年10月に開会したアイルランド議会はわずか2か月でタウンゼンドの命令により閉会、次に開かれたのは1771年2月のことだった<ref name="DIB" />。この1年以上の閉会期間中にタウンゼンドとマカートニーは多数派工作を行い、アンダーテイカーの{{仮リンク|アイルランド庶民院議長|en|Speaker of the Irish House of Commons}}[[ジョン・ポンソンビー (政治家)|ジョン・ポンソンビー閣下]]は開会後に議長辞任を余儀なくされた<ref name="DIB" />。マカートニーは主席政務官としてアイルランド庶民院で与党側を主導し、[[ヘンリー・フラッド]]、{{仮リンク|チャールズ・ルーカス (政治家)|en|Charles Lucas (politician)|label=チャールズ・ルーカス}}ら野党に対抗し、温和ながら野党に対し断固とした態度をとったと『[[英国人名事典]]』で評された<ref name="DNB" />。一方で就任から1年も満たないうちに[[アイルランド貴族]]への叙爵を申請し、タウンゼンドは申請をロンドン政府に転送したが、申請は1770年2月に国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に却下された<ref name="HOP" /><ref name="DIB" />。

1772年5月29日に[[バス勲章]]を授与された後<ref>{{London Gazette|issue=11255|page=1|date=6 June 1772}}</ref>、同年にタウンゼンドが召還されるとマカートニーも10月に退任の代償として1,500[[スターリング・ポンド|ポンド]]の年金を得て、11月に主席政務官を退任した<ref name="HOP" /><ref name="DIB" />。これらの補償にもかかわらずマカートニーは不満を感じ、1773年1月の{{仮リンク|国務大臣 (アイルランド)|en|Secretary of State (Ireland)|label=アイルランド国務大臣}}{{仮リンク|ジョン・ヒーリー=ハッチンソン (国務大臣)|en|John Hely-Hutchinson (secretary of state)|label=ジョン・ヒーリー=ハッチンソン}}への手紙で不平を述べた<ref name="HOP" />。もっとも、退任自体には喜んでおり、『アイルランド人名事典』は[[帝国主義]]者のマカートニーにとって、アイルランド国内の事務にしか関心のないアイルランド議会は大して重要ではないものだろうと評した<ref name="DIB" />。

マカートニーは再度グレートブリテン庶民院議員になることを求め、義父ビュート伯爵がスコットランドのバラ選挙区での当選を約束した<ref name="HOP" />。年金を受給していたため庶民院議員になれなかったが、マカートニーは年金を放棄して、代わりに1774年にトゥーム城総督({{lang|en|Constable of Toome Castle}})という年収1,000ポンド相当の[[閑職]]に任命された(のちに在ロシア大使の在任中に負った借金を返すために売却した)<ref name="DNB" /><ref name="DIB" />。ビュート伯爵は約束通り[[1774年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|エア・バラ選挙区|en|Ayr Burghs (UK Parliament constituency)}}での候補としてマカートニーを推挙、有力者の{{仮リンク|ジョン・キャンベル (第5代アーガイル公爵)|en|John Campbell, 5th Duke of Argyll|label=第5代アーガイル公爵ジョン・キャンベル}}はマカートニーがスコットランド人ではないとして反対したが、スコットランド人の末裔でスコットランドにわずかな領地を有し、ビュート伯爵の娘婿であることから反対を取り下げ、マカートニーは当選した<ref name="HOPAyrBurghs">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/ayr-burghs|title=Ayr Burghs|last=Haden-Guest|first=Edith Lady|access-date=2 March 2024}}</ref>。2度目の議員期では投票の記録がなく、貿易について発言した<ref name="HOP" />。

=== グレナダ総督と3度目の議員期 ===
1775年11月に{{仮リンク|グレナダ総督|en|List of colonial governors and administrators of Grenada|label=グレナダ、トバゴおよびグレナディーン総督}}に任命され<ref name="DIB" /><ref name="HOP" />、12月12日に『[[ロンドン・ガゼット]]』で発表された<ref>{{London Gazette|issue=11622|page=8|date=12 December 1775}}</ref>。これにより1776年1月にグレートブリテン庶民院議員とアイルランド庶民院議員を退任、5月3日に妻とともにグレナダの[[セントジョージズ]]に到着した<ref name="DIB" /><ref name="HOP" /><ref name="ODNB" />。1776年7月19日、[[アイルランド貴族]]である[[アントリム県]]リッサヌアの'''マカートニー男爵'''に叙された<ref name="Cokayne" /><ref>{{London Gazette|issue=11679|page=1|date=29 June 1776}}</ref>。

現地では美しい景色や多様な住民を高く評価したが、有力者を頑迷と断じて、トバゴ議会を解散した<ref name="ODNB" />。続いて経済問題にとりかかり、[[アメリカ独立戦争]]で敵対しているフランスに備えて民兵隊の編成を計画した<ref name="ODNB" />。計画は間に合わず、マカートニーは1779年7月にフランス軍の[[グレナダ占領 (1779年)|侵攻]]を受けて降伏、[[捕虜]]としてフランスの[[リモージュ]]に送られたが、すぐに捕虜交換で釈放され、11月に帰国した<ref name="Cokayne" /><ref name="HOP" /><ref name="ODNB" />。妻は捕虜にならず逃亡に成功した<ref name="ODNB" />。マカートニーが本国に送った降伏の報せによると、フランス軍が[[戦列艦]]25隻、[[フリゲート]]12隻、陸軍6,500人という大軍に対し、守備軍が正規軍の歩兵101人、砲兵24人、海員数人と民兵300から400人しかいなかったという<ref name="Cokayne" />。1780年、首相[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]によりアイルランドへ秘密裏に派遣された<ref name="Cokayne" />。この時期にはすでに[[アイルランド王国]]と[[グレートブリテン王国]]の合同を提唱したが、その主張に耳を傾ける人はいなかった<ref name="ODNB" />。

[[1780年イギリス総選挙]]で[[ヒュー・パーシー (初代ノーサンバランド公)|初代ノーサンバランド公爵ヒュー・パーシー]]の[[懐中選挙区]]である{{仮リンク|ベア・アルストン選挙区|en|Bere Alston (UK Parliament constituency)}}から出馬して、無投票で当選した<ref name="HOPBereAlston">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/bere-alston|title=Bere Alston|last=Namier|first=Sir Lewis|author-link=ルイス・バーンスタイン・ネイミア|access-date=2 March 2024}}</ref>。

=== マドラス総督 ===
1780年11月に[[イギリス東インド会社]]が{{仮リンク|マドラス総督|en|List of colonial governors and presidents of Madras Presidency}}に社員以外を任命するとの方針を決定した<ref name="DNB" />。マカートニーは貿易に関する知識とインド諸派に対する公正さ、そして海軍大臣の[[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー]]からの支持を武器に東インド会社の理事会を説得し、東インド会社の社員でない初のマドラス総督となった<ref name="ODNB" />。マカートニーは1781年2月に議員を辞任、2月21日に出発して6月22日に[[チェンナイ|マドラス]]に到着した<ref name="DNB" /><ref name="HOP" /><ref name="ODNB" />。妻は耳が遠くなっており、マドラスへ向かわず、かわりにグレナダでの秘書官だった{{仮リンク|ジョージ・ストーントン (初代準男爵)|en|Sir George Staunton, 1st Baronet|label=ジョージ・ストーントン}}が同行した<ref name="ODNB" />。

マカートニーは就任とともに[[第四次英蘭戦争]]開戦の報せをインドに届けており、また[[第二次マイソール戦争]]で[[ハイダル・アリー]]が[[カーナティック]]地方に侵攻したことを知った<ref name="DNB" />。マカートニーはすぐさまにオランダ領への侵攻を命じ、[[ナーガパッティナム包囲戦]]や[[トリンコマリー占領 (1782年)|トリンコマリー占領]]で勝利した<ref name="DNB" />。ハイダル・アリーに対しても東インド会社軍を率いた{{仮リンク|エア・クート (東インド会社の軍人)|en|Eyre Coote (East India Company officer)|label=エア・クート}}将軍が1781年7月1日の[[ポルト・ノヴォの戦い]]で勝利し、マカートニーは講和交渉を提案した<ref name="DNB" />。しかしマカートニーはクートとの間で争いが起こり、[[インド総督]][[ウォーレン・ヘースティングズ]]がクートを正式に総指揮官に任命してマカートニーを牽制した<ref name="ODNB" />。また[[カルナータカ太守]][[ムハンマド・アリー・ハーン]]はイギリスに多くの借金を重ねており、マカートニーは戦争への備えを目的に、借金の代償としてカルナータカ太守の歳入を管理しようとしたが、ヘースティングズに阻まれた<ref name="ODNB" />。フランス軍の侵攻が現実となったことでヘースティングズは一旦譲歩したが、マカートニーが歳入を一向に太守に返そうとせず、ヘースティングズは1783年5月までに再びマカートニーと敵対した<ref name="ODNB" />。軍のほうではクートが病気になったが、その後任である{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (1741年生の陸軍軍人)|en|James Stuart (British Army officer, born 1741)|label=ジェームズ・ステュアート}}もマカートニーと仲が悪かった<ref name="DNB" />。その結果、ハイダル・アリーが死去してインド諸邦の結束が緩まっていたにもかかわらず、東インド会社は大規模な攻勢に出られなかった<ref name="DNB" />。

フランスは1783年に[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]でイギリスと講和したが、ヘースティングズはハイダル・アリーの後継者[[ティプー・スルターン]]との交渉をはじめることを拒否し、ティプー・スルターンのほうから講和を提案されてようやく交渉の場につくことに同意した<ref name="ODNB" />。1784年3月11日に締結された{{仮リンク|マンガロール条約|en|Treaty of Mangalore}}でティプー・スルターンはカルナータカに対する請求をすべて取り下げ、東インド会社理事会は1784年10月15日にマカートニーの頭越しにカルナータカ太守の歳入管理を解消した<ref name="ODNB" />。そこでマカートニーは秘書ストーントンをロンドンに送って自身の主張を広め、[[エドマンド・バーク]]が1785年2月28日に庶民院で東インド会社の統治における汚職について告発することとなった<ref name="ODNB" />。この時代には東インド会社の統治で汚職が横行していたが、マカートニーは汚職には手を出さなかったとされ、在任中に横領なしで30,000ポンドもの貯金をしたという<ref name="ODNB" /><ref name="DIB" />。

マドラス自体の統治に関しては、{{仮リンク|スティーブン・ポパム|en|Stephen Popham}}が提出した計画を採用して警察委員会({{lang|en|Board of Police}})を設立したほか、1792年に本国で成立した法律でイギリス東インド会社に地方税を徴収する権限が与えられ、税率を5%に定めた<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://chennaicorporation.gov.in/gcc/about-GCC/about-chennai/origin-and-growth/|title=Origin and Growth|website=Greater Chennai Corporation|access-date=2 March 2024}}</ref>。

マカートニーは1785年6月にマドラス総督を辞任したが、最後の努力として[[コルカタ|カルカッタ]]で[[ベンガル総督]]を説得しようとし、失敗に終わった<ref name="Cokayne" /><ref name="DNB" />。しかも病気になり、一時カルカッタから離れられなかった<ref name="DNB" />。一方で本国では2月にマカートニーに対しベンガル総督の就任を打診しており、この報せは7月にカルカッタ滞在中のマカートニーのもとに届いた<ref name="Cokayne" />。しかしマカートニーは就任を辞退して、8月14日に帰国の途につき<ref name="Cokayne" />、1786年1月に到着した<ref name="DNB" />。

帰国後、ジェームズ・ステュアートがマカートニーを批判して、マカートニーがステュアートに[[決闘]]の挑戦状を突きつけるという事件が起こった<ref name="DNB" />。2人の決闘は1786年6月8日に[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]で行われ、マカートニーが重傷を負った<ref name="DNB" />。同年に[[メイフェア]]の{{仮リンク|カーゾン・ストリート|en|Curzon Street}}3号にある邸宅を購入した<ref name="DIB" />。このほか、1786年ごろに[[サリー (イングランド)|サリー]]州パークハースト({{lang|en|Parkhurst}})を購入したが、1799年に売却し、代わりに[[チジック]]のコーニー・ハウス({{lang|en|Corney House}})を賃貸した<ref name="ODNB" />。1788年3月12日、{{仮リンク|アイルランド貴族院|en|Irish House of Lords}}議員に就任した<ref name="Cokayne" />。

マカートニーのマドラス総督としての評価は、『アイルランド人名事典』によれば首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]との会談(1786年1月)では好評を得られず、[[グレートブリテン貴族]]への叙爵も得られなかった<ref name="DIB" />。同事典が評したところでは、マカートニーはマドラス総督の在任中、現地関係者のほぼ全員(ヘースティングズ、クート、{{仮リンク|ポール・ベンフィールド|en|Paul Benfield}}、{{仮リンク|ジョン・マクファーソン (初代準男爵)|en|Sir John Macpherson, 1st Baronet|label=ジョン・マクファーソン}}、カルナータカ太守)と敵対したことがあり、健康の悪化も相まってマカートニーにとっては難しい時期だった<ref name="DIB" />。

=== 清への使節団 ===
{{Main|{{仮リンク|マカートニー使節団|en|Macartney Embassy}}}}
[[File:The Approach of the Emperor of China to His Tent in Tartary to Receive the British Ambassador (brightened).jpg|thumb|right|マカートニーが乾隆帝に謁見するときの様子。{{仮リンク|ウィリアム・アレグザンダー (画家)|en|William Alexander (painter)|label=ウィリアム・アレグザンダー}}画、1793年。]]
1791年秋、[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]{{仮リンク|ヘンリー・ダンダス (初代メルヴィル子爵)|en|Henry Dundas, 1st Viscount Melville|label=ヘンリー・ダンダス}}は[[清朝]]への使節についてマカートニーに打診、色よい返事が得られたことで12月22日に任命が決定され、年収は10,000ポンドとした<ref name="DIB" />。この{{仮リンク|マカートニー使節団|en|Macartney Embassy}}の主目的はイギリスの科学技術の先進さを示して貿易改善、特に茶貿易の安定化を交渉し、できればイギリス商人が[[日本]]や[[コーチシナ]]に進出できるよう図る、というものであり<ref name="DIB" /><ref name="Nipponica" />、ほかには茶の栽培と製造に関する情報収集も目的の1つだった<ref name="Sekaidaihyakka">{{Cite Kotobank|word=マカートニー|encyclopedia=世界大百科事典(旧版)|access-date=2 March 2024}}</ref>。清朝への使節は1787年7月に{{仮リンク|チャールズ・アラン・カスカート|en|Charles Allan Cathcart}}が任命されたが、清に到着する前に病死している{{Sfn|King|2010|p=12}}。

1792年5月2日、[[枢密院 (イギリス)|グレートブリテン枢密院]]の枢密顧問官に任命された<ref name="Cokayne" />。7月19日、アイルランド貴族であるアントリム県ダーヴォックの'''マカートニー子爵'''に叙され<ref name="Cokayne" />、帰国後に伯爵に叙するという内定も得た<ref name="DIB" />。マカートニー、ストーントンなど94人からなるマカートニー使節団はダンダスの9月8日付の命令書をもって、9月26日にライオン号で[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]から出発し、ライオン号にはイギリスの工業製品や乾隆帝を喜ばせるためのおもちゃが載せられた<ref name="ODNB" />{{Sfn|King|2010|p=30}}。1793年6月20日に[[マカオ]]に着き、7月には[[天津]]へ到達した<ref name="DIB" />{{Sfn|King|2010|p=31}}。

1793年([[乾隆]]58年)9月14日、マカートニーは[[熱河]]離宮で乾隆帝に謁見した<ref name="ODNB" />。このとき、乾隆帝への[[三跪九叩頭の礼]](3回跪き、9回頭を地に擦りつける)を求められたが、なんとか回避して、代わりに片膝をついて信任状を手渡した<ref name="Nipponica">{{Cite Kotobank|word=マカートニー|last=浜下|first=武志|author-link=濱下武志|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|access-date=2 March 2024}}</ref>。以降再度の謁見はかなわず、友好通商条約の交渉は[[ヘシェン]](和珅)に拒否され、さらに10月3日には北京に着いてわずか1週間にもかかわらず退去を命じられた<ref name="ODNB" />。清は自国が自給自足できると考え、イギリス商人には恩恵として貿易を許可したにすぎず、マカートニー使節団も[[朝貢]]使節とみなされたのであった<ref name="EB">{{Cite encyclopedia|language=en|encyclopedia=Encyclopaedia Britannica|title=George Macartney, Earl Macartney, Viscount Macartney of Dervock, baron of Lissanoure, Baron Macartney of Parkhurst and of Auchinleck, Lord Macartney|url=https://www.britannica.com/biography/George-Macartney-Earl-Macartney|access-date=2 March 2024}}</ref>。マカートニーは帰路で内陸を旅して[[広州]]を経由<ref name="Nipponica" />、そこでイギリス商人への待遇改善を説いたが、具体的な改革は進められなかった<ref name="ODNB" />。広州では12月23日にダンダスへの手紙を出し、日本への使節団派遣を主張したが、すでに北京で受け取っていた[[フランス革命戦争]]勃発の報せを広州で正式に確認したことで、使節団が[[バタヴィア]]からのフランス艦隊に攻撃される危険が生じ、マカートニーは最終的には日本行きを諦めた{{Sfn|King|2010|pp=32–33}}。

使節団は1794年1月9日に清を離れ、9月5日にロンドンに到着した<ref name="DIB" />。出発する前の内定通り、マカートニーは1794年3月1日にアイルランド貴族である'''マカートニー伯爵'''に叙された<ref name="Cokayne" />。

マカートニーは清朝が在北京公使を認めなかったことで貿易拡大の試みが頓挫したとのちに結論付けた<ref name="ODNB" />。もっとも、20世紀の歴史学者ジョン・ロンスロット・クランマー=ビング({{lang|en|John Launcelot Cranmer-Byng}})は「使節団が成功する可能性は最初から僅かすらない」と評し、『アイルランド人名事典』は清がイギリスを下に見て朝貢を求め、イギリスは対等の国から貿易における譲歩を引き出そうとしたとし、最初から共通の土台になかったと評した<ref name="DIB" />。『[[ブリタニカ百科事典]]』はマカートニー使節団の失敗を[[アヘン戦争]]の一因と評している<ref name="EB" />。

マカートニーは清での見聞を日記を残し<ref name="Nipponica" />、この記録はイギリス人による中国研究の出発点となった<ref>{{Cite Kotobank|word=マカートニー|last=井上|first=裕正|author-link=井上裕正|encyclopedia=改訂新版 世界大百科事典 |access-date=2 March 2024}}</ref>。茶の情報収集に関しては茶樹の持ち帰りに成功したが、[[コルカタ|カルカッタ]]での移植は失敗した<ref name="Sekaidaihyakka" />。

=== ヴェローナでの任務 ===
1795年7月10日に秘密任務を受けて、[[ヴェローナ]]に亡命していた[[ルイ18世 (フランス王)|プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス]](のちのフランス王ルイ18世)のもとに向かった<ref name="Cokayne" /><ref name="ODNB" />。本国からプロヴァンス伯の近くに泊まるという命令も受けた<ref name="DNB" />。秘密任務はプロヴァンス伯が発するつもりである、共和派への脅迫的な「ヴェローナ宣言」({{lang|en|Verona declaration}})の文言を和らげるという目的だったが、宣言はマカートニーがヴェローナに到着する数週間前に発され、プロヴァンス伯も譲歩をすべきではないと判断した<ref name="DIB" />。マカートニーは11月に休暇を取ってイタリア([[パドヴァ]]、[[ヴェネツィア]]、ボローニャ、フィレンツェ、[[ナポリ]]、ローマ)を旅し、1796年4月にイタリアを発って帰国した<ref name="DIB" />。帰国後の1796年6月8日に[[グレートブリテン貴族]]であるカークブリーにおけるオーキンレックおよびサリー州におけるパークハーストの'''マカートニー男爵'''に叙され、9月27日に[[貴族院 (イギリス)|グレートブリテン貴族院]]議員に就任した<ref name="Cokayne" /><ref>{{London Gazette|issue=13897|page=527|date=31 May 1796}}</ref>。

=== ケープ植民地総督 ===
1796年、ダンダスは帰国してきたマカートニーに対し、年収10,000ポンドの{{仮リンク|イギリス領南アフリカ植民地総督|en|List of governors of British South African colonies|label=ケープ植民地総督}}への就任を打診し、マカートニーは健康が悪化した場合帰国してもよいという条件をつけて受諾し、1796年12月30日に{{仮リンク|イギリス領南アフリカ植民地総督|en|List of governors of British South African colonies|label=ケープ植民地総督}}に正式に任命された<ref name="ODNB" /><ref name="DIB" /><ref>{{London Gazette|city=e|issue=368|page=221|date=3 January 1797}}</ref>。1797年5月4日に[[ケープタウン]]に到着した(妻はこのときには完全に失聴しており、ケープタウンに同行しなかった)<ref name="ODNB" /><ref name="DIB" />。ケープ植民地では譲歩と改革の形で[[ボーア人]](オランダ系入植者)との融和を図ったほか、[[拷問]]を廃止し、[[奴隷貿易]]を推進しなかった<ref name="ODNB" />。またケープ植民地にある資源を鑑みて、その領有がインドを守る上で有利という一点でのみ有用であると断じ、[[イギリス東インド会社]]がケープ植民地を統治すべきと主張した<ref name="ODNB" />。このごろには[[痛風]]、[[腎結石]]、[[痔]]を患い、視力も低下していたため、1798年12月に退職した<ref name="Cokayne" /><ref name="DNB" /><ref name="DIB" />。同様の理由により、1801年に[[アディントン内閣]]から打診を受けた[[インド庁長官]]への就任も辞退した<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />。1801年、[[大英博物館]]理事に任命された<ref name="Cokayne" />。

=== 死去 ===
最晩年は主にリッサヌアに住み、たまにメイフェアの邸宅にも寄る程度だった<ref name="DIB" />。1800年代には体調がさらに悪くなり、リッサヌアを訪れたのは1804年夏が最後となった<ref name="DIB" />。また1800年代にアントリム県{{仮リンク|ダーヴォック|en|Dervock}}を再建し、アントリム県{{仮リンク|ロックギル|en|Loughguile}}の地所を増築した{{Sfn|Roebuck|1983|p=xi}}。

1806年3月31日、カーゾン・ストリートの邸宅で死去<ref name="DIB" />、4月9日に[[チジック]]で埋葬された<ref name="Cokayne" />。爵位はすべて廃絶、遺産は遺言状に基づき、妻に毎年2,100[[スターリング・ポンド|ポンド]]が支払われるほかは姉妹エリザベスとジョン・バラキエール({{lang|en|John Balaquier}})の娘エリザベス(トラヴァース・ヒュームの妻)が相続した<ref name="Cokayne" />。このエリザベスの息子{{仮リンク|ジョージ・ヒューム・マカートニー|en|George Hume Macartney|label=ジョージ・ヒューム}}はのちに苗字をマカートニーに改めた<ref name="EB1911" />。

== 著作 ==
*[https://archive.org/details/bim_eighteenth-century_an-account-of-russia-md_macartney-george-macart_1768 {{lang|en|''An Account of Russia''}}](1768年)
*[https://archive.org/details/bim_eighteenth-century_an-account-of-ireland-in_macartney-george-earl-_1773 {{lang|en|''An Account of Ireland in 1773''}}](1773年)
*中国に派遣された時期の日記がジョン・ロンスロット・クランマー=ビング({{lang|en|John Launcelot Cranmer-Byng}})の編集で1962年に出版された<ref>{{Cite book2|language=en|last=Macartney|first=George Macartney, Earl|editor-last=Cranmer-Byng|editor-first=John Launcelot|title=An embassy to China: being the journal kept by Lord Macartney during his embassy to the Emperor Ch'ien-lung, 1793-1794|date=1962|publisher=Longmans|ncid=BA03489760}}</ref>。
**[[坂野正高]]訳注『中国訪問使節日記』([[平凡社東洋文庫]]、初版1975年9月、ワイド版2004年9月){{ISBN|978-4256182567}}

== 人物 ==
マカートニーは中背で、穏やかな人柄であり、『[[英国人名事典]]』は「好感が持てる人物」と評した<ref name="DNB" />。書物を収集しており、1786年に{{仮リンク|リテラリー・クラブ (18世紀)|en|The Club (dining club)|label=リテラリー・クラブ}}に入会、1792年ごろには会長を務めた<ref name="DIB" />。1792年6月7日、[[王立協会フェロー]]に選出された<ref name="RS">{{FRS|code=NA4935|title=Macartney; George (1737 - 1806); Earl Macartney and Viscount Macartney|access-date=2 March 2024}}</ref>。1795年4月30日、[[ロンドン考古協会]]フェローに選出された<ref name="Cokayne" />。1854年に所蔵の書籍が売却された<ref name="ODNB" />。

駐ロシア大使の在任中に借金を重ね、1790年には2万ポンドを超えたが、マドラス総督、駐清大使、ケープ植民地総督といった官職を務めたことで改善し、借金を完済したうえ年収9,000ポンド相当となった<ref name="DIB" />。『アイルランド人名事典』はマカートニーを「それほど裕福でない家系出身でも、運と能力に恵まれば、18世紀の大英帝国で出世できる」事例であるとした<ref name="DIB" />。

== 注釈 ==
{{Reflist|group=注釈}}

== 出典 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
*{{Cite journal2|language=en|last=King|first=Robert J.|title=“The long wish'd for object” — Opening the Trade to Japan, 1785-1795|date=31 January 2010|journal=The Northern Mariner Le Marin Du Nord|volume=20|issue=1|page=12|url=https://tnm.journals.yorku.ca/index.php/default/article/view/314/2010-01-31}}
*{{Cite book2|language=en|editor-last=Roebuck|editor-first=Peter|title=Macartney of Lisanoure, 1737-1806|date=1983|publisher=Ulster Historical Foundation|location=Belfast|url=https://archive.org/details/isbn_0901905305/|url-access=registration|isbn=0-901905-30-5}}

== 関連図書 ==
*{{Cite book2|language=en|last=Roberts|first=Michael|title=Macartney in Russia|date=1974|publisher=Longman|location=London|url=https://archive.org/details/macartneyinrussi0000robe/|url-access=registration}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[阿片戦争]]
*[[アヘン戦争]]
* [[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)]]
*[[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)]]
*{{仮リンク|マカートニー使節団|en|Macartney Embassy}}
*{{仮リンク|マカートニー使節団|en|Macartney Embassy}}


== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Wikisource author|wslanguage=en|wslink=George Macartney|title=ジョージ・マカートニー}}
*{{NPG name}}
*{{OL author}}
*{{UK National Archives ID}}

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{{S-bef|before=[[ロバート・カニンガム (初代ロスモア男爵)|ロバート・カニンガム]]|before2=[[バリー・マクスウェル (初代ファーナム伯爵)|バリー・マクスウェル閣下]]}}
{{S-ttl|title={{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons|label=庶民院}}議員({{仮リンク|アーマー・バラ選挙区|en|Armagh Borough (Parliament of Ireland constituency)}}選出)|years=1768年 – 1776年|with={{仮リンク|フィリップ・ティスダル|en|Philip Tisdall}} 1768年 – 1769年|with2=チャールズ・オハラ 1769年 – 1776年}}
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2024年4月17日 (水) 02:24時点における最新版

ジョージ・マカートニーの肖像画。レミュエル・フランシス・アボット画、1785年ごろ。

初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニー英語: George Macartney, 1st Earl Macartney KB PC PC (Ire) FRS FSA1737年5月14日1806年5月31日)は、イギリス外交官、植民地行政官。駐ロシア大使英語版アイルランド主席政務官英語版グレナダ総督マドラス総督英語版駐清大使英語版マカートニー使節団英語版)、ケープ植民地総督英語版という経歴は『アイルランド人名事典』で「地球の四隅を訪れた」と評され、財を成したことから「それほど裕福でない家系出身でも、運と能力に恵まれば、18世紀の大英帝国で出世できる」事例と評された[1]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ジョージ・マカートニー(George Macartney、1779年1月12日没、ジョージ・マカートニーの次男)と妻エリザベス(1755年没、ジョン・ウィンダーの娘)の息子として、1737年5月3日にアントリム県リッサヌア(Lissanoure)で生まれた[2][1]。マカートニー家はスコットランド出身の家系であり、マカートニーの曽祖父の代、1649年にスコットランド南西部のカークブリーシャー英語版からアルスターに移住し、祖父の代に財を成して地主になった[1]。しかし祖父は次男(マカートニーの父)に遺産を残そうとせず、遺言状で長男チャールズと孫ジョージに遺産を残した[1]

マカートニーは1745年7月18日にキルデア県リークスリップ英語版寄宿学校に入学した[1][3]。この学校はダブリン大学トリニティ・カレッジへの進学を目指す学生向けの進学校であり、古典学フランス語を中心に教えた[1]。マカートニーは1750年6月10日にトリニティ・カレッジに入学、『完全貴族要覧』では1759年にM.A.の学位を修得したとし[2]、『アイルランド人名事典』ではおそらく1754年に卒業したとしている[1]。1757年秋にロンドンに引っ越し、そこで大学時代の教師であったウィリアム・デニス(William Dennis)の紹介を受けてエドマンド・バークと親友になった[2][1]。ロンドンでは当初リンカーン法曹院入学を目指したが、翌年に代わりにミドル・テンプルに入学した[1]。ちょうどこの時期に祖父が亡くなって遺産をいくらか相続し、さらに1759年に伯父チャールズが死去すると残りの遺産を相続したことで、マカートニーは弁護士を目指さず、代わりに大陸ヨーロッパへの旅行(グランドツアー)を計画した[1]

グランドツアーでは1760年にイタリア(ミラノトリノルッカピサフィレンツェボローニャローマ)を6か月間旅し、冬をジュネーヴで過ごした[1]。ジュネーヴで政治家ヘンリー・フォックス(のちの初代ホランド男爵)の長男スティーブン・フォックスに出会い、以降ホランド男爵家と親しくなった[4]。ホランド男爵家の邸宅であるホランド・ハウスにも頻繁に訪れ、『オックスフォード英国人名事典』ではスティーブンがギャンブルにのめりこんでおり、マカートニーがそれを止めることに期待が寄せられたためだとした[5]

1761年7月にスティーブンとともに一時帰国した後、12月には再びジュネーヴに向かい、ジャン=ジャック・ルソーヴォルテールジャン・ル・ロン・ダランベールクロード=アドリアン・エルヴェシウスといった哲学者と知り合った[1]。1763年、マカートニーとスティーブンはパリでホランド男爵夫婦に会った後、フランスとオランダを旅し、マカートニーはさらにスティーブンの弟チャールズ・ジェームズ・フォックスとドイツを旅した[5]

駐ロシア大使[編集]

1764年初に帰国すると、ホランド男爵はミッドハースト選挙区英語版でマカートニーを当選させようとし、それが失敗した後は代わりとして1764年8月22日(『オックスフォード英国人名事典』では10月4日[5])に在ロシアイギリス特命全権公使英語版の官職をマカートニーに与えた[4][6]。同年10月19日、出発する前のマカートニーは騎士爵に叙された[2][4]

ベルリンダンツィヒ経由で[7]12月27日にサンクトペテルブルクに着いた後[8]、在ロシア公使としてイギリスとロシアの通商条約交渉に取り掛かろうとしたが、病気になったことで交渉が延期された[5]。1765年8月に全権を与えられないままロシアと通商条約を締結し、イギリスのロシアにおける最恵国待遇を守ったが、ロシア経由のアフシャール朝ペルシアとの通商は解禁できず、条約が本国で拒否された[5]。再交渉を求められたロシアは怒ったが、最終的には再交渉に応じ、通商条約は1766年に締結され[5]、マカートニーは同年6月にポーランド白鷲勲章英語版を授与された[2]

チャールズ・ジェームズ・フォックスはマカートニーによるロシア皇帝エカチェリーナ2世への演説を称え、エドマンド・バークもすばらしいと思うだろうと述べた[4]。マカートニーはロシアでの見聞についてAccount of the Russian Empireを著し、1767年に私的に出版した[5]

1度目の議員期[編集]

マカートニーは1766年6月にホランド男爵に手紙を書き、外交官の仕事に不満はないと述べつつ、昇進の道がないため議会の議席を求めた[6]。このときには首相が大ピットに代替わりしており、大ピットがハンス・スタンリー英語版を駐ロシア大使に任命したことでマカートニーは1767年4月3日にサンクトペテルブルクを発ち、コペンハーゲン経由で8月に帰国した[5]。ホランド男爵はすぐにマカートニーの議会入りに向けた交渉をはじめ、ストックブリッジ選挙区英語版、ついでピーターズフィールド選挙区英語版での出馬を模索した[6]。ピーターズフィールドでは一度内定に至ったが、スタンリーが赴任せず、マカートニーは11月20日に再度駐ロシア大使に任命された[6][5]。そこでマカートニーはピーターズフィールドでの後援者ジョン・ジョリフ英語版に辞退の手紙を書いてしまった[6]。もっとも、『アイルランド人名事典』はマカートニーが通商条約交渉でニキータ・パーニンを怒らせ、さらに女官2名と関係をもったことでエカチェリーナ2世の怒りも買い、ロシア宮廷ではペルソナ・ノン・グラータ同然になっており、再就任などできるはずもないと評していて[1]、マカートニーは最終的にはロシアに赴任しなかった[2]

1768年イギリス総選挙コッカーマス選挙区英語版から出馬して当選した[9]。コッカーマスは第5代準男爵サー・ジェームズ・ラウザー英語版の懐中選挙区であり、ラウザーはマカートニーの義兄(妻の姉の夫)にあたる[6]

グレートブリテン庶民院における1度目の議員期では政府を支持し、1768年11月にラウザーに対する選挙申立の審議ではじめて発言した[6]ホレス・ウォルポールによれば、マカートニーの演説自体は称賛されたが、審議に大きな影響を与えることはできなかった[6]

アイルランド主席政務官と2度目の議員期[編集]

1768年2月1日、ジェーン・ステュアート(Jane Stuart、1742年4月 – 1828年2月28日、イギリス首相第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの娘)と結婚した[2]。ジェーンは子供のときに患った天然痘で顔に瘢痕ができ、耳も悪かったが、マカートニーは真摯にジェーンを愛し、1786年6月の手紙でジェーンを“my dearest love”と呼んでいる[1]。ジェーンは一度妊娠したが流産し[1]、結局子供はできなかった[2]

義母メアリーはマカートニーの再度のロシア赴任を禁じ、代わりに駐トリノ公使、戦時大臣といった官職が検討された[5]。ちょうどこの時期に選挙区での後援者ラウザーがマカートニーに議席を譲るよう圧力をかけており、その代償としてマカートニーはビュート伯爵の支持を受けて1769年1月1日にアイルランド主席政務官英語版に就任[5]、3月にグレートブリテン庶民院議員を退任した[6]

まだ主席政務官就任も決まっていない1768年7月にアーマー・バラ選挙区英語版にてアイルランド庶民院議員に選出され、1776年まで務めた[2][1]。これは主席政務官の職務上必要であるためだった[10]。1769年3月30日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[2]。この時期、アイルランド総督第4代タウンゼンド子爵ジョージ・タウンゼンドは改革を進めようとして、現地の「アンダーテイカー」と政争を繰り広げており[注釈 1]、マカートニーは一旦タウンゼンドの代表としてロンドンに戻ったが、内閣がアイルランド総督の改革に同意せず、アイルランド議会の開会が近づいたことで9月にダブリンに戻った[5][1]。マカートニーのロンドン行きにはもう1つの目的があった。すなわち、すでに駐ロシア大使を務めていたマカートニーにとって、アイルランド主席政務官就任は降格であり、ロンドンで駐スペイン大使の官職を得るための活動もしたが、失敗に終わっている[1]

1769年10月に開会したアイルランド議会はわずか2か月でタウンゼンドの命令により閉会、次に開かれたのは1771年2月のことだった[1]。この1年以上の閉会期間中にタウンゼンドとマカートニーは多数派工作を行い、アンダーテイカーのアイルランド庶民院議長英語版ジョン・ポンソンビー閣下は開会後に議長辞任を余儀なくされた[1]。マカートニーは主席政務官としてアイルランド庶民院で与党側を主導し、ヘンリー・フラッドチャールズ・ルーカス英語版ら野党に対抗し、温和ながら野党に対し断固とした態度をとったと『英国人名事典』で評された[4]。一方で就任から1年も満たないうちにアイルランド貴族への叙爵を申請し、タウンゼンドは申請をロンドン政府に転送したが、申請は1770年2月に国王ジョージ3世に却下された[6][1]

1772年5月29日にバス勲章を授与された後[11]、同年にタウンゼンドが召還されるとマカートニーも10月に退任の代償として1,500ポンドの年金を得て、11月に主席政務官を退任した[6][1]。これらの補償にもかかわらずマカートニーは不満を感じ、1773年1月のアイルランド国務大臣英語版ジョン・ヒーリー=ハッチンソン英語版への手紙で不平を述べた[6]。もっとも、退任自体には喜んでおり、『アイルランド人名事典』は帝国主義者のマカートニーにとって、アイルランド国内の事務にしか関心のないアイルランド議会は大して重要ではないものだろうと評した[1]

マカートニーは再度グレートブリテン庶民院議員になることを求め、義父ビュート伯爵がスコットランドのバラ選挙区での当選を約束した[6]。年金を受給していたため庶民院議員になれなかったが、マカートニーは年金を放棄して、代わりに1774年にトゥーム城総督(Constable of Toome Castle)という年収1,000ポンド相当の閑職に任命された(のちに在ロシア大使の在任中に負った借金を返すために売却した)[4][1]。ビュート伯爵は約束通り1774年イギリス総選挙エア・バラ選挙区英語版での候補としてマカートニーを推挙、有力者の第5代アーガイル公爵ジョン・キャンベル英語版はマカートニーがスコットランド人ではないとして反対したが、スコットランド人の末裔でスコットランドにわずかな領地を有し、ビュート伯爵の娘婿であることから反対を取り下げ、マカートニーは当選した[12]。2度目の議員期では投票の記録がなく、貿易について発言した[6]

グレナダ総督と3度目の議員期[編集]

1775年11月にグレナダ、トバゴおよびグレナディーン総督に任命され[1][6]、12月12日に『ロンドン・ガゼット』で発表された[13]。これにより1776年1月にグレートブリテン庶民院議員とアイルランド庶民院議員を退任、5月3日に妻とともにグレナダのセントジョージズに到着した[1][6][5]。1776年7月19日、アイルランド貴族であるアントリム県リッサヌアのマカートニー男爵に叙された[2][14]

現地では美しい景色や多様な住民を高く評価したが、有力者を頑迷と断じて、トバゴ議会を解散した[5]。続いて経済問題にとりかかり、アメリカ独立戦争で敵対しているフランスに備えて民兵隊の編成を計画した[5]。計画は間に合わず、マカートニーは1779年7月にフランス軍の侵攻を受けて降伏、捕虜としてフランスのリモージュに送られたが、すぐに捕虜交換で釈放され、11月に帰国した[2][6][5]。妻は捕虜にならず逃亡に成功した[5]。マカートニーが本国に送った降伏の報せによると、フランス軍が戦列艦25隻、フリゲート12隻、陸軍6,500人という大軍に対し、守備軍が正規軍の歩兵101人、砲兵24人、海員数人と民兵300から400人しかいなかったという[2]。1780年、首相ノース卿によりアイルランドへ秘密裏に派遣された[2]。この時期にはすでにアイルランド王国グレートブリテン王国の合同を提唱したが、その主張に耳を傾ける人はいなかった[5]

1780年イギリス総選挙初代ノーサンバランド公爵ヒュー・パーシー懐中選挙区であるベア・アルストン選挙区英語版から出馬して、無投票で当選した[15]

マドラス総督[編集]

1780年11月にイギリス東インド会社マドラス総督英語版に社員以外を任命するとの方針を決定した[4]。マカートニーは貿易に関する知識とインド諸派に対する公正さ、そして海軍大臣の第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューからの支持を武器に東インド会社の理事会を説得し、東インド会社の社員でない初のマドラス総督となった[5]。マカートニーは1781年2月に議員を辞任、2月21日に出発して6月22日にマドラスに到着した[4][6][5]。妻は耳が遠くなっており、マドラスへ向かわず、かわりにグレナダでの秘書官だったジョージ・ストーントン英語版が同行した[5]

マカートニーは就任とともに第四次英蘭戦争開戦の報せをインドに届けており、また第二次マイソール戦争ハイダル・アリーカーナティック地方に侵攻したことを知った[4]。マカートニーはすぐさまにオランダ領への侵攻を命じ、ナーガパッティナム包囲戦トリンコマリー占領で勝利した[4]。ハイダル・アリーに対しても東インド会社軍を率いたエア・クート英語版将軍が1781年7月1日のポルト・ノヴォの戦いで勝利し、マカートニーは講和交渉を提案した[4]。しかしマカートニーはクートとの間で争いが起こり、インド総督ウォーレン・ヘースティングズがクートを正式に総指揮官に任命してマカートニーを牽制した[5]。またカルナータカ太守ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスに多くの借金を重ねており、マカートニーは戦争への備えを目的に、借金の代償としてカルナータカ太守の歳入を管理しようとしたが、ヘースティングズに阻まれた[5]。フランス軍の侵攻が現実となったことでヘースティングズは一旦譲歩したが、マカートニーが歳入を一向に太守に返そうとせず、ヘースティングズは1783年5月までに再びマカートニーと敵対した[5]。軍のほうではクートが病気になったが、その後任であるジェームズ・ステュアート英語版もマカートニーと仲が悪かった[4]。その結果、ハイダル・アリーが死去してインド諸邦の結束が緩まっていたにもかかわらず、東インド会社は大規模な攻勢に出られなかった[4]

フランスは1783年にパリ条約でイギリスと講和したが、ヘースティングズはハイダル・アリーの後継者ティプー・スルターンとの交渉をはじめることを拒否し、ティプー・スルターンのほうから講和を提案されてようやく交渉の場につくことに同意した[5]。1784年3月11日に締結されたマンガロール条約英語版でティプー・スルターンはカルナータカに対する請求をすべて取り下げ、東インド会社理事会は1784年10月15日にマカートニーの頭越しにカルナータカ太守の歳入管理を解消した[5]。そこでマカートニーは秘書ストーントンをロンドンに送って自身の主張を広め、エドマンド・バークが1785年2月28日に庶民院で東インド会社の統治における汚職について告発することとなった[5]。この時代には東インド会社の統治で汚職が横行していたが、マカートニーは汚職には手を出さなかったとされ、在任中に横領なしで30,000ポンドもの貯金をしたという[5][1]

マドラス自体の統治に関しては、スティーブン・ポパム英語版が提出した計画を採用して警察委員会(Board of Police)を設立したほか、1792年に本国で成立した法律でイギリス東インド会社に地方税を徴収する権限が与えられ、税率を5%に定めた[16]

マカートニーは1785年6月にマドラス総督を辞任したが、最後の努力としてカルカッタベンガル総督を説得しようとし、失敗に終わった[2][4]。しかも病気になり、一時カルカッタから離れられなかった[4]。一方で本国では2月にマカートニーに対しベンガル総督の就任を打診しており、この報せは7月にカルカッタ滞在中のマカートニーのもとに届いた[2]。しかしマカートニーは就任を辞退して、8月14日に帰国の途につき[2]、1786年1月に到着した[4]

帰国後、ジェームズ・ステュアートがマカートニーを批判して、マカートニーがステュアートに決闘の挑戦状を突きつけるという事件が起こった[4]。2人の決闘は1786年6月8日にハイド・パークで行われ、マカートニーが重傷を負った[4]。同年にメイフェアカーゾン・ストリート英語版3号にある邸宅を購入した[1]。このほか、1786年ごろにサリー州パークハースト(Parkhurst)を購入したが、1799年に売却し、代わりにチジックのコーニー・ハウス(Corney House)を賃貸した[5]。1788年3月12日、アイルランド貴族院議員に就任した[2]

マカートニーのマドラス総督としての評価は、『アイルランド人名事典』によれば首相小ピットとの会談(1786年1月)では好評を得られず、グレートブリテン貴族への叙爵も得られなかった[1]。同事典が評したところでは、マカートニーはマドラス総督の在任中、現地関係者のほぼ全員(ヘースティングズ、クート、ポール・ベンフィールド英語版ジョン・マクファーソン英語版、カルナータカ太守)と敵対したことがあり、健康の悪化も相まってマカートニーにとっては難しい時期だった[1]

清への使節団[編集]

マカートニーが乾隆帝に謁見するときの様子。ウィリアム・アレグザンダー英語版画、1793年。

1791年秋、内務大臣ヘンリー・ダンダス英語版清朝への使節についてマカートニーに打診、色よい返事が得られたことで12月22日に任命が決定され、年収は10,000ポンドとした[1]。このマカートニー使節団英語版の主目的はイギリスの科学技術の先進さを示して貿易改善、特に茶貿易の安定化を交渉し、できればイギリス商人が日本コーチシナに進出できるよう図る、というものであり[1][17]、ほかには茶の栽培と製造に関する情報収集も目的の1つだった[18]。清朝への使節は1787年7月にチャールズ・アラン・カスカート英語版が任命されたが、清に到着する前に病死している[19]

1792年5月2日、グレートブリテン枢密院の枢密顧問官に任命された[2]。7月19日、アイルランド貴族であるアントリム県ダーヴォックのマカートニー子爵に叙され[2]、帰国後に伯爵に叙するという内定も得た[1]。マカートニー、ストーントンなど94人からなるマカートニー使節団はダンダスの9月8日付の命令書をもって、9月26日にライオン号でポーツマスから出発し、ライオン号にはイギリスの工業製品や乾隆帝を喜ばせるためのおもちゃが載せられた[5][20]。1793年6月20日にマカオに着き、7月には天津へ到達した[1][21]

1793年(乾隆58年)9月14日、マカートニーは熱河離宮で乾隆帝に謁見した[5]。このとき、乾隆帝への三跪九叩頭の礼(3回跪き、9回頭を地に擦りつける)を求められたが、なんとか回避して、代わりに片膝をついて信任状を手渡した[17]。以降再度の謁見はかなわず、友好通商条約の交渉はヘシェン(和珅)に拒否され、さらに10月3日には北京に着いてわずか1週間にもかかわらず退去を命じられた[5]。清は自国が自給自足できると考え、イギリス商人には恩恵として貿易を許可したにすぎず、マカートニー使節団も朝貢使節とみなされたのであった[22]。マカートニーは帰路で内陸を旅して広州を経由[17]、そこでイギリス商人への待遇改善を説いたが、具体的な改革は進められなかった[5]。広州では12月23日にダンダスへの手紙を出し、日本への使節団派遣を主張したが、すでに北京で受け取っていたフランス革命戦争勃発の報せを広州で正式に確認したことで、使節団がバタヴィアからのフランス艦隊に攻撃される危険が生じ、マカートニーは最終的には日本行きを諦めた[23]

使節団は1794年1月9日に清を離れ、9月5日にロンドンに到着した[1]。出発する前の内定通り、マカートニーは1794年3月1日にアイルランド貴族であるマカートニー伯爵に叙された[2]

マカートニーは清朝が在北京公使を認めなかったことで貿易拡大の試みが頓挫したとのちに結論付けた[5]。もっとも、20世紀の歴史学者ジョン・ロンスロット・クランマー=ビング(John Launcelot Cranmer-Byng)は「使節団が成功する可能性は最初から僅かすらない」と評し、『アイルランド人名事典』は清がイギリスを下に見て朝貢を求め、イギリスは対等の国から貿易における譲歩を引き出そうとしたとし、最初から共通の土台になかったと評した[1]。『ブリタニカ百科事典』はマカートニー使節団の失敗をアヘン戦争の一因と評している[22]

マカートニーは清での見聞を日記を残し[17]、この記録はイギリス人による中国研究の出発点となった[24]。茶の情報収集に関しては茶樹の持ち帰りに成功したが、カルカッタでの移植は失敗した[18]

ヴェローナでの任務[編集]

1795年7月10日に秘密任務を受けて、ヴェローナに亡命していたプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(のちのフランス王ルイ18世)のもとに向かった[2][5]。本国からプロヴァンス伯の近くに泊まるという命令も受けた[4]。秘密任務はプロヴァンス伯が発するつもりである、共和派への脅迫的な「ヴェローナ宣言」(Verona declaration)の文言を和らげるという目的だったが、宣言はマカートニーがヴェローナに到着する数週間前に発され、プロヴァンス伯も譲歩をすべきではないと判断した[1]。マカートニーは11月に休暇を取ってイタリア(パドヴァヴェネツィア、ボローニャ、フィレンツェ、ナポリ、ローマ)を旅し、1796年4月にイタリアを発って帰国した[1]。帰国後の1796年6月8日にグレートブリテン貴族であるカークブリーにおけるオーキンレックおよびサリー州におけるパークハーストのマカートニー男爵に叙され、9月27日にグレートブリテン貴族院議員に就任した[2][25]

ケープ植民地総督[編集]

1796年、ダンダスは帰国してきたマカートニーに対し、年収10,000ポンドのケープ植民地総督英語版への就任を打診し、マカートニーは健康が悪化した場合帰国してもよいという条件をつけて受諾し、1796年12月30日にケープ植民地総督英語版に正式に任命された[5][1][26]。1797年5月4日にケープタウンに到着した(妻はこのときには完全に失聴しており、ケープタウンに同行しなかった)[5][1]。ケープ植民地では譲歩と改革の形でボーア人(オランダ系入植者)との融和を図ったほか、拷問を廃止し、奴隷貿易を推進しなかった[5]。またケープ植民地にある資源を鑑みて、その領有がインドを守る上で有利という一点でのみ有用であると断じ、イギリス東インド会社がケープ植民地を統治すべきと主張した[5]。このごろには痛風腎結石を患い、視力も低下していたため、1798年12月に退職した[2][4][1]。同様の理由により、1801年にアディントン内閣から打診を受けたインド庁長官への就任も辞退した[4][5]。1801年、大英博物館理事に任命された[2]

死去[編集]

最晩年は主にリッサヌアに住み、たまにメイフェアの邸宅にも寄る程度だった[1]。1800年代には体調がさらに悪くなり、リッサヌアを訪れたのは1804年夏が最後となった[1]。また1800年代にアントリム県ダーヴォック英語版を再建し、アントリム県ロックギル英語版の地所を増築した[3]

1806年3月31日、カーゾン・ストリートの邸宅で死去[1]、4月9日にチジックで埋葬された[2]。爵位はすべて廃絶、遺産は遺言状に基づき、妻に毎年2,100ポンドが支払われるほかは姉妹エリザベスとジョン・バラキエール(John Balaquier)の娘エリザベス(トラヴァース・ヒュームの妻)が相続した[2]。このエリザベスの息子ジョージ・ヒューム英語版はのちに苗字をマカートニーに改めた[10]

著作[編集]

  • An Account of Russia(1768年)
  • An Account of Ireland in 1773(1773年)
  • 中国に派遣された時期の日記がジョン・ロンスロット・クランマー=ビング(John Launcelot Cranmer-Byng)の編集で1962年に出版された[27]
    • 坂野正高訳注『中国訪問使節日記』(平凡社東洋文庫、初版1975年9月、ワイド版2004年9月)ISBN 978-4256182567

人物[編集]

マカートニーは中背で、穏やかな人柄であり、『英国人名事典』は「好感が持てる人物」と評した[4]。書物を収集しており、1786年にリテラリー・クラブ英語版に入会、1792年ごろには会長を務めた[1]。1792年6月7日、王立協会フェローに選出された[28]。1795年4月30日、ロンドン考古協会フェローに選出された[2]。1854年に所蔵の書籍が売却された[5]

駐ロシア大使の在任中に借金を重ね、1790年には2万ポンドを超えたが、マドラス総督、駐清大使、ケープ植民地総督といった官職を務めたことで改善し、借金を完済したうえ年収9,000ポンド相当となった[1]。『アイルランド人名事典』はマカートニーを「それほど裕福でない家系出身でも、運と能力に恵まれば、18世紀の大英帝国で出世できる」事例であるとした[1]

注釈[編集]

  1. ^ 18世紀アイルランドにおけるアンダーテイカー(undertaker、「請負人」)は行政を請負し、その代償として権力や政府の後援への影響力を得た有力者のことを指す。1760年代にはアンダーテイカーによる統治の非効率さが露呈しており、タウンゼンドはこの制度を改革しようとした[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av Thomas, Bartlett (October 2009). "Macartney, George". In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi:10.3318/dib.005101.v1
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参考文献[編集]

関連図書[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

アイルランド議会
先代
ロバート・カニンガム
バリー・マクスウェル閣下
庶民院議員(アーマー・バラ選挙区英語版選出)
1768年 – 1776年
同職:フィリップ・ティスダル英語版 1768年 – 1769年
チャールズ・オハラ 1769年 – 1776年
次代
フィリップ・ティスダル英語版
ヘンリー・メレディス
グレートブリテン議会英語版
先代
サー・ジョン・モードント英語版
ジョン・エリオット
庶民院議員(コッカーマス選挙区英語版選出)
1768年 – 1769年
同職:チャールズ・ジェンキンソン英語版 1768年
ジョージ・ジョンストン英語版 1768年 – 1769年
次代
ジョージ・ジョンストン英語版
サー・ジェームズ・ラウザー準男爵英語版
先代
ジェームズ・ステュアート閣下英語版
庶民院議員(エア・バラ選挙区英語版選出)
1774年 – 1776年
次代
フレデリック・ステュアート閣下英語版
先代
サー・フランシス・ドレイク準男爵英語版
ジョージ・ホバート閣下英語版
庶民院議員(ベア・アルストン選挙区英語版選出)
1780年 – 1781年
同職:アルジャーノン・パーシー卿英語版 1780年
フィールディング子爵 1780年 – 1781年
次代
フィールディング子爵
ローレンス・コックス英語版
公職
先代
フレデリック・キャンベル卿英語版
アイルランド主席政務官英語版
1769年 – 1772年
次代
ジョン・ブラキエール英語版
外交職
先代
バッキンガムシャー伯爵
在ロシアイギリス特命全権公使英語版
1764年 – 1766年
次代
ハンス・スタンリー英語版
先代
ハンス・スタンリー英語版
在ロシアイギリス特命全権公使英語版
1767年 – 1768年
次代
カスカート卿英語版
空位
最後の在位者
チャールズ・アラン・カスカート閣下英語版
在清国イギリス大使英語版
1792年 – 1794年
空位
次代の在位者
アマースト男爵
官職
先代
サー・ウィリアム・ヤング準男爵英語版
グレナダ総督
1775年 – 1779年
次代
ジャン=フランソワ・ド・デュラ英語版
フランス領グレナダ総督として
先代
チャールズ・スミス(暫定)
サー・トマス・ラムボルド準男爵英語版(正式)
マドラス総督英語版
1781年 – 1785年
次代
アレグザンダー・デイヴィッドソン(暫定)
サー・アーチボルド・キャンベル英語版(正式)
新設官職 ケープ植民地総督英語版
1797年 – 1798年
次代
フランシス・ダンダス英語版(暫定)
サー・ジョージ・ヤング準男爵英語版(正式)
アイルランドの爵位
爵位創設 マカートニー伯爵
1794年 – 1806年
廃絶
マカートニー子爵
1792年 – 1806年
マカートニー男爵
1776年 – 1806年
グレートブリテンの爵位
爵位創設 マカートニー男爵
1795年 – 1806年
廃絶