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イブラーヒーム・イブン・アル=マフディー

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イブラーヒーム・イブン・アル=マフディー (アラビア語: إبراهيم بن المهدي‎, ラテン文字転写: Ibrāhīm b. al-Mahdī 779年 – 839年) は、アッバース朝の王族、歌手、作曲家、詩人[1]

情報源[編集]

伝記的情報の情報源としては、10世紀のアブー=バクル・アッ=スーリー英語版の『カリフ家の詩人と彼らについての伝聞』がある[1]。歴史的二次資料としてはさらに、11世紀の文人アブー=アル=ファラジュ・アル=イスバハーニーの『歌の書』や、9-10世紀の歴史学者ムハンマド・イブン=ジャリール・アッ=タバリーの『諸使徒と諸王の歴史』、10世紀の書籍商アブー=アル=ファラジュ・アン=ナディームの『目録の書』、13世紀の人物伝作家イブン=ハッリカーンの『名士列伝』がある[2]:13[3]

出自[編集]

アッバース朝の三代目カリフ・アル=マフディーは複数の妃との間に数多くの子女をもうけた[1][4]。イブラーヒーム・イブン=アル=マフディーもそのひとりである[1][4]。『名士列伝』によればイブラーヒームの肌の色は浅黒かったという[5]。これは母親ゆずりであるとされ[5]、『歌の書』によるとイブラーヒームの母はタバリスターンの王侯の娘、シャクラ Shakla である[4]。シャクラは二代目カリフ・マンスールの治世期間中、マンスールが征服したタバリスターンからバグダードの宮廷へと連行され、ターイフで教育を受けてマフディーへ献上されたジャーリヤ(女奴隷)である[4]

なお、四代目カリフ・アル=ハーディーと五代目カリフ・アッ=ラシードベドウィンからマフディーに献上されたジャーリヤであるアル=ハイズラーンを母とする[4]。したがって彼らとイブラーヒームとは異母兄弟の関係にある[4]。また、イブラーヒームと同様に歌手として高名なウライヤ・ビント=アル=マフディーは(諸説あるが『歌の書』によれば)メディナ出身のジャーリヤ、マクヌーナを母とする[4]。したがって彼女とイブラーヒームとは異母姉弟の関係にある[4]

生涯[編集]

イブラーヒームはヒジュラ暦162年ズー=アル=カアダ月1日前後(ユリウス暦779年7月20日ごろ)に生まれた[3][5]。体躯が大きく「龍」を意味するアッ=ティンニーンとあだ名された[5]。人徳があり学識にすぐれ、度量があり洗練された言葉づかいで、詩文の才には並外れたものがあった、とされる[5]

ヒジュラ暦200年(ユリウス暦815年8月から816年7月)以後、異母弟アル=アミーンとの内乱に勝利したカリフ・アル=マァムーンは、支持基盤のあるホラーサーン地方メルヴにいて首都バグダードを不在にしていた[3]。アル=マァムーンは自身の後継者にターリブ家のアリー・アッ=リダーを指名した[3]。この決定にバグダードのアッバース家に属する人々は強い不満を抱き、イブラーヒーム・イブン=アル=マフディーこそがカリフであると主張しはじめた[3]。ヒジュラ暦201年ズー=アル=ヒッジャ月25日(ユリウス暦817年7月)、彼らはイブラーヒームに忠誠(バイア英語版)を誓い、ヒジュラ暦202年ムハッラム月1日(ユリウス暦817年7月20日)には他のバグダード市民も続いた[3][5]。秘密裡にことは進み、ヒジュラ暦202年ムハッラム月5日(ユリウス暦817年7月24日)に公表、アル=マァムーンの退位とイブラーヒームの即位が宣言された[5]。君主としてのラカブは「アル=ムバーラク」 al-Mubārak、「祝福される者」の意である[5]

反乱の鎮圧のためアル=マァムーンがホラーサーンから軍を動かすと、イブラーヒームは自身の命が危ないことを理解し、ヒジュラ暦203年ズルヒッジャ月16日(ユリウス暦819年6月14日)に投降した[5]。ヒジュラ暦204年サファル月15日(ユリウス暦819年8月11日)、アル=マァムーンはバグダードに入城した[5]。アッ=タバリーによると、イブラーヒームの統治は1年と11月と12日間に及んだ[5][注釈 1]


以降彼は詩人・音楽家として余生を送り、「並外れた声域に恵まれた、当時もっとも才能ある音楽家」となった[1]。彼は当時としては革新的な「冗長で即興的な」ペルシア型の歌謡の推進者だった[6]

イブラーヒームはヒジュラ暦224年ラマダーン月7日(ユリウス暦839年7月23日)にサーマッラーにて亡くなった[5]。葬儀の際の祈祷文は彼の甥にあたるカリフ・アル=ムゥタスィムにより読み上げられた[5]

註釈[編集]

  1. ^ 純粋な太陰暦による日数である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Kilpatrick, H. (1998). "Ibrāhīm ibn al-Mahdī". In Meisami, Julie Scott; Starkey, Paul (eds.). Encyclopedia of Arabic Literature. Vol. 1. Taylor & Francis. p. 387. ISBN 978-0-415-18571-4
  2. ^ Bencheikh, J. E. (1975). “Les musiciens et la poésie. Les écoles d’Isḥāq al-Mawṣilī (m. 225 H.) et d’Ibrāhīm Ibn al-Mahdī (m. 224 H.)”. Arabica 22 (2): 114–152. JSTOR stable/4056278. 
  3. ^ a b c d e f Sourdel, D. (1971). "Ibrāhīm b. al-Mahdī". In Lewis, B.; Ménage, V. L. [in 英語]; Pellat, Ch. [in 英語]; Schacht, J. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume III: H–Iram. Leiden: E. J. Brill. pp. 987–988.
  4. ^ a b c d e f g h 中野, さやか「アブー・ファラジュ・イスファハーニー著『歌書』に見られる歌手達の分析:ウマイヤ朝・アッバース朝宮廷との関わりを中心に」『日本中東学会年報』第28巻第1号、2012年7月15日、59-98頁、doi:10.24498/ajames.28.1_59 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m MacGuckin De Slane, William. (trans.), "Ibn Khallikan's Biographical Dictionary" (Ibn Khallikan, Wafayāt al-Aʿyān wa-Anbāʾ Abnāʾ al-Zamān)
  6. ^ Agnes Imhof, 'Traditio vel Aemulatio? The Singing Contest of Sāmarrā’, Expression of a Medieval Culture of Competition', Der Islam, 90 (2013), 1-20 (p. 1), DOI 10.1515/islam-2013-0001, http://www.goedoc.uni-goettingen.de/goescholar/bitstream/handle/1/10792/Traditio%20vel%20Aemulatio.pdf?sequence=1.